東延              
東延機械場  旧別子で唯一残っている建物 
       
    東延地区

この谷の上部が東延地区である。明治7年(1874)住友家が招いたフランス人鉱山技師ルイ・ラロックの構想に基き明治9年から近代化の開発が始まった。あの見事な石垣の築造は2年の歳月を要して明治18年に完成したもので、面石は背後の山腹にある蛇紋岩を採石し築造した。
谷川の流水は赤煉瓦30万枚を使って暗渠を構築し、用地の底を伏流させている。造成当時の用地面積は約6,600㎡、造成に要した作業者の数は延べ23,000人であった。ただし、冬季4~5ヶ月は積雪・凍結で工事を中断したが、その間に新居浜地区で暗渠用の煉瓦を作った。
       
 
明治23年

2006年9月23日
       
 
 2022年7月10日
   第一通洞から東延は見える。いや、見えていた。
明治23年の写真では東延の堰堤が聳え立っているのがよくわかる。2006年に撮影した時はわずかに写っている。2022年には、どこにあるのか全くわからない状態になっている。緑が回復した別子銅山でもあるので、喜ぶべき所ではあるが、壮大な産業遺産が見えないのは淋しい。
ここから東延斜坑・機械場などを見て、往復30分はかかる。帰りの飛行機の時間を気にして登る研修登山の人たちは←の風景を見ただけで終ってしまう。
東延は住友の近代化の発祥の地である。
     
   
  「東延時代の幕開けはラロックの目論見書からはじまった。」
   と書かれている本や資料があるが、そうではない。
   
   「東延とはいつの頃からの呼び名か明らかではないが、元禄の末頃には大根戸といい、その後も永くそう呼ばれていたと思われる。文化4年(1807)幕府の検分使に差し出した「予州別子立川両銅山仕格覚書」に初めて東延間符の名が見えると別子開坑二百五十年史話は述べている。従ってこの時点を余り遡らない頃、東延の名が誕生したとしなければならない。」
   伊藤玉男著「明治の別子」102ページより   このように元禄の時代から存在する。
   
   別子鉱床の鉱脈が大黒間符から東延までの間に横たわっています。開坑当初から東延の存在は確認していたと思われる。明治になってルイ・ラロックが来て東延を発見したような書き方は不都合だ。
   
   明治 09年 1876   東延斜坑の開さく着手
    15年 1882  東延斜坑に馬巻揚機設置 東延新鋪開さく
    16年 1883  東延の築提に着工
    18年 1885  東延の堰堤竣工
    23年  1890  別子銅山東延斜坑堀進に蒸気捲揚機を使用 
    28年 1895   東延斜坑貫通(東延~8番坑道準)
     東延大煙突完成
    35年 1902  第三通洞貫通(東平坑口~東延斜坑底)
    39年  1906   東延選鉱場廃止
     東延斜大半焼失
    44年  1911   東延斜復旧
     日浦通洞貫通(東延斜坑底~日浦)
  大正 5年 1916  採鉱本部を東延から東平に移転
  昭和 5年 1930  東延斜坑の使用中止
    7年  1932   東延斜坑で大火災発生
     東延斜坑廃止
       
  東延の築堤     
   
       明治14年11月2日撮影
   
         明治30年代の東延
  東延埋め立て工事を担当したのは工部大学助教授桑原政で、明治16年10月13日設置されたぼかりの東延事務所の所長となり、明治16年10月から築造工事を始めましたが、冬季のため本格工事がは始まったのは3月22日でした。明治18年10月13日に完成。
桑原政(ただす)=工部大学校助教授→別子銅山技師→実業家→衆議院議員(1912年没) 
.
   その後の東延の発展は目覚ましく、明治19年2月9日第一通洞が完成、明治28年には東延斜坑が完成、東延時代の幕開けでした。 山方から採鉱本部も移って来ましたが、年代は不明である。
.
   左の写真中央よりやや上に山肌が白く見える所がありますが、 蛇紋岩の露頭です。ここから石を切出して、築堤の面石(つらいし) としました。左の写真で切出した跡が確認できます。旧別子のほとんどの石垣は変成岩で積まれている。蛇紋岩の石垣は東延だけである。
.
   
   
  4枚の写真はいづれも 2009年10月撮影したものです。現在は手前の木々が成長し視界を遮り全く見ることが出来なくなっています。
完成から140年近く経過していますが当時のままの姿が残っています。ただ1箇所穴が開いています。「東延のズリの中に混入する鉱石の比率や質を調べるために、試験掘なるものを行ったが、その際、あの見事な東延の石垣にダイナマイトを押入して破壊してしまった。」山村文化34号09ページ 
   
  明治30年代の写真では 石垣が 2段になっています。
現在は写真でも写っている通り 1段しか見えません。1段目に木々が茂り 2段目の石段を隠してしまっています。
すばらしい産業遺産なので 代々抗からも見えるように下刈りをして頂けると よろしいかと 思うのですが・・・。
明治18年に完成したこの石垣ですが 120年余り経過したにもかかわらず ご覧の通りの頑丈さです。  
   
   
   
    すごい量の煉瓦が使われています。これだけのものが、もし人々の目につきやすい所にあれば登録有形文化財になっていたことだろう。    中は暗くてよく見えませんでした。
       
   
   現在観察できる暗渠に関わる煉瓦構造物だけで概略30万枚の煉瓦が使われていることがほぼ証明出来るのである。
      山村文化31号8ページ
  途中で分岐したもう一本の暗渠 
       
    東延谷暗渠の下流側の洞口で、肉厚が70㎝におよぶ暗渠の周りを、更に堅固に煉瓦で巻き立て、蛇紋岩の石垣を支えている。東延斜坑口とともに、否、それ以上に別子銅山の近代化の意気込みを象徴した見事な構造物である。

豪華に構築されて、東延築堤を一層美しく引き立てている。維新以来の不況に見舞われ、蒸気巻揚機の購入もままならんというのに、ずい分と派手な意匠を凝らしたかに見えるが、この野放図さが明治という時代を表現しているようにも見える。
     山村文化31号7ページ


   ここから水が流れ込みます    
       
   
   
   左の写真の左に煙突があります。
煉瓦造りの立派なものです。
今この煙突があれば 旧別子のシンボルになっていたに違いありません。この煙突は今はありません。
「第二次世界大戦のときに敵機の攻撃目標になってはいけないと ダイナマイトを仕掛けて破壊したと」
  -山村文化 34号より-
   同じく山村文化34号の8ページの写真には破壊された煙突の残骸が見えます。
昭和19年に破壊されました。破壊されて約80年になります。写真は昭和27年ごろのものです。
       
   もう少し詳しく記してみます
いつ頃造られたのか
明治28年の住友別子鉱業所の考課状にいくつかある中で、「東延煙突並二煙道築造」との項目があります。このようになっているから煙突・煙道の築造は明治28年であることに間違いはない
目的は 今まで一個で足りていたボイラーを新しく増設して6個にして、機械化を一層促進させることになり、熱源を効率の高い石炭に切り替えることになった。このようになるとボイラーはある範囲内に集約し、個々の排煙装置は煙道に連結して高度差のある煙突に吸引させた方が、ボイラーの機能のためにも、また環境の面でも得策であったからだろう。
       伊藤玉男氏の   山村文化32号 写真は語る9 東延(下)より要約しました。  
       
   
  東延に登った登山道のすぐ脇にあります。倒壊した煙突の煉瓦の上にも木が茂り少し見えにくくなっています。
この煙突の高さを現した物は残っていない。小足谷にある醸造所の煙突は8.985m(実測)ですが、写真で見るかじり醸造所の煙突より高いようだ。
       
       
     元禄4年に開坑し192年を経て、新しい別子銅山が誕生した場所になるでしょう。その意味も込めて、洋館2階建てのモダンな事務所になった事と思う

明治31年の目出度町の様子と比べても近代的な建物になっていることがよくわかる。
   右端の洋館が東延事務所です。    
       
     
   東延築堤の先端辺りに煉瓦の基礎が残っている。    初めて見たとき水槽かと見間違えた。旧別子で建物の基礎が残っているのは東延事務所と高橋の住友病院だけである。
       
     明治16年 東延事務所が開設されて機構は拡大した。

初代東延事務所長は桑原政(くわばら ただす)である。工
部大学助教授だった桑原政は独立の開発部門の技師として住友に招かれたが、設置されるはずだった蒸気巻揚機が、見通しもたたないまま見送られたことで潔く身を引いた。明治18年9月のことである。 山村文化31号・34号より要約

       
       
    山村文化30号38ページに 「東延竜王神社の燈籠」の写真がある 写真の提供者は近藤幹夫氏となっている。写真掲載のみで竜王神社の記述が全くない「明治の別子」と言う伊藤玉男氏が書いた本がある。その本に「明治中期の別子銅山」の地図があり東延に竜王神社が記されてあって「後年西方の尾根に遷る」とある 尾根を探したのである。2度ほど広範囲に探索したが発見できず。近藤幹夫氏本人に詳しく尋ねたところ  なんと 尾根ではなく谷だった。
 
アクセス
素麺滝まで行くと「石灯籠」の案内板がある。少しわかりにくいが探しながら行って見よう
     
  東延の竜王神社
この神社の歴史は、さほど古くはないが、銅山の鉱脈が本舗より北口に延び、自然に東延方面へ坑口の開さくが必要となり、東へ延びたので、東延という小字が出来たようである。鉱脈が地下深く掘り下げられると地下の竜神の怒りにふれるのではないかということで、怒りにふれないために、竜神の神社を杷ったのである。
此の竜神の御神体は、実に立派な彫刻である。住友家という背景のもとに製作されただけに、全部金の彩色であり、目が覚めるような御神像である。
明治末年に会社の神殿が破損したので、再建するまで一時奉遷したのであるが、その間に盗難に逢って、現在の御神体は似てはいるが代品だという噂が立ったので、村の有志が当時の神官和田氏にかけ合って、紋付羽織・袴姿で拝観することになり、和田神官は拝礼し扉を開き直ちに御神体を出し奉る。恭しく掛けられた白布を取れば、金色燦然たる竜王明神が現われ一同十分に拝観した。
盗難の噂は、単なる噂のみであったことがわかり一同安堵したのである。
  (別子山村史 757ページ)より 
   
    旧別子東延に竜王神社というのがあった。
「明治の別子」伊藤玉男著、「別子山村史」同役場、「村のあらまし」同役場、「別子山村郷土誌」同役場資料愛媛労働運動史第一巻愛媛県、或は故老からの話を総合してみても、竜王神社がいつ創立されたかは、詳らかでないようである。
文書の上で記録されていることは、明治40年の別子銅山大争議の時に、労働者が気勢をあげるために神社跡へ集結した事、或は大山積神社の末社として、東延山社というのがあって、火災でいつの頃か残らず焼失、その後再建せず、今は廃社になって跡方もないと出ているが、現在社殿のあとを偲ぶよすがもない程だというので、これが竜王神社かも分らない。
いま、神社を検するに既に乱離骨灰、ここ10年も経過すれば自然に山腹樹海に埋没して、全く伝説上の神社となるであろうことが予想される。
巷説伝える所の、別子銅山開発進行に伴なう、排水の万全を祈願するため、竜王をお祀りしたという発想は面白いが、神社の創建、廃止に至る文献がないので、敢えてとりあげてみた。
   (新居浜史談230号36ページ 芥川三平著)より要約
   
       
       
   
神社があっての灯篭と思うが、神社の形跡がない。写真でもわかるが、以下の上に灯篭だけがぽつんと立っている。灯篭には「明治44年」と刻まれている。別子山の人口は明治38年をピークに減り始め明治44年3,634人になっている。この時期に建立されている。別子山村の人口はを引くと3000人弱となる。
   
       
       
   東延に入ると 東延斜坑より先に この煉瓦の建造物が目に付きます。気にはなっているのですが わかりません。
いつの年代のかもわかりません。旧別子の主な施設は大正5年ごろまでに東平に移動しています 
「機械場も昭和7年(1932)に廃止」とありますが、昭和29年に上・中部開発起業がはじまり 昭和43年3月末まで稼動しています
その時に作られたものかも判りませんが 資料がないので不明です。
   
       
       
       
       
   煉瓦台の寸法を測ってきました  左    中  
       
   右    機械場空気圧搾機械 明治31年撮影
  住友史料館報30号50ページの写真は 鉱山東延、機械場空気圧搾機械 ですが
手前にコンプレッサーが並んでいて 後ろにタンクが見える このタンクの足の
煉瓦がこの台のような気もするが 形が少し違うのです。??? 
   
   東延にある
   
  東延には数多くの間符・坑口がある。旧呼び名・新しい呼び名・勝手につけた名前・など整理がつかない私のホームページでは黒川氏が用いている呼び名で統一させて頂く。
  (愛媛の鉱山跡写真集 1~8  黒川 直幸/撮影・編集  新居浜図書館 N/562/ク/1)
   第一通洞(南口)   今は扉で通行できないようにしていますが
伊藤玉男氏は旧別子の見回りにこの通道を
利用していた。

詳しくは こちら をご覧ください
   東延斜坑    東延築堤の山際にある。柵があるのですぐわかる。

詳しくは こちら をご覧ください
   東延竪坑
   間違い
 
陥没によるでした
     (東延縦坑は図面上ここにはない)
東延斜坑の北にある
柵を巡らせています。立入り禁止の看板があります。
縦坑なので井戸のように直です 見学は気をつけてください
   東延新口坑   東延斜坑の山際にあり3本の鉄パイプが立てかけてある

東延西座本坑?
東延西座本坑は古くは東山間符(歓治問符)の水抜きのため開削された東山水抜間符かと思われるが場所の同定はまだ出来ていない。  山村文化30号48ページ
    天満水抜き間符   東延新口坑の西にある
間符は潰れていてわかりづらいが坑木がみえる。
貳番抜戸・東延西走り坑とも言われています
   歓治間符   東延斜坑がら東へ 谷にあるH鋼を渡ると見える。
歓治間符は開発当初の元禄、宝永の頃には東山間符と云われていたらしいその後 東延本坑と呼ばれていた。
   東延東走り坑   歓治間符のすぐ隣にある。
塞いでいる石垣が半分ほど崩れているので中が見える。 水が溜まっています。
   東延築堤坑   東延築堤を掘っている。戦後に開けられた様子。
   東延風廻し坑   東延築堤の下流の右岸にある。
登山道の下のある。
   東山間符  不明  
   東山新口間符   風廻わし間符と思われる。明治拾三年調整の東延坑坑内図によると、大体この位置に「風道」という坑口が画かれているから、通気坑として掘られたのであろう。しかし、鉱床の位置的関係から推して鑓押し坑道であったと思われる。ずっと古く、多分元禄の末期に東山新口という鉱さかじ問符(探鉱坑道)はこれに当るのかも知れない。
山村文化30_46 写真ば語る七 東延(上)より
歓東坑の東の尾根に風廻しという坑口がある
   東山風廻し坑  不明  
   東延間符  不明 歓治間符座元(後の一番坑道)
東延新鋪という新座元(二番坑道?) 
    惣山大水抜間符  不明 元禄12年掘削開始 歓東本鋪の座元(下底部)を狙った
この間符に代って代々水抜問符が開削され 
       
       
 ☆ 東延坑口には東延選鉱場があり、その下方数ケ所に和式焼鉱炉240基が散在していた。
    旧別子銅山案内14
   
 ☆ 大立坑、第四通洞の貫通を機会として、大正5年(1916)1月、別子銅山の採鉱本部を嶺南の
東延(海抜約1,150㍍)から嶺北の東平(海抜約750㍍)へと移転しました。これにより、採鉱の
拠点が初めて銅山峰の北側(新居浜市側)に移されました。
    歓喜の鉱山46 
   
 ☆  東延の谷は南口付近より下流は広い暗渠となっていたが、明治の水害で崩れてしまった。
    旧別子銅山案内32
   
 ☆  東延斜坑の上方の集落を東谷部落と言い、その西に隣接するものを西谷部落と言った。
    (明治の別子102ページ)
   
       
       
       
       


東延のトロッコの傾降道である。東延斜坑から搬出した鉱石はトロッコで運搬されたが、写真左上のトロッコ道に木製の構造物があるが、これが下部のトロッコ道に降ろす傾降道のプラットホームである。その下方には、傾降軌道の中ほどを降下するトロッコが見える。.これにより、従来のシュート(鉱石落とし)を用いず、鉱石はトロッコに載せたまま移動できるようになったのである。
  住友史料館報30号24ページより

探索中
第一通洞の対岸の急傾斜(崖)にあるのですが現地に行っても形跡がない。岩にボルトなど何らかの残骸が残っておると思われる。今後の調査になる。