老朽化していたので 以前と同じ形で2018年に修復された
住友別子鉱山史上巻7ページ より  歓喜坑歓東坑
別子本鋪(標高1,210m)
本鋪とは一山の主たる生産坑のことである。元禄4年5月9白、幕府の稼行許可を得て、泉屋は直ちに開坑の準備に取りかかった。
その時点で、この谷間を利用して、掘り出した鉱石から銅を摘り出すまでの工程を組み込むために、ここに中心となる坑道を開けることにした。前年の秋に初めて調査にやって来た泉屋の番頭田向重右衛門が下した決断であった。かくして別子山中に最初に開いた坑口がこの歓喜間符と歓東間符である。重右衛門が考えた通り,以来明治になって東延斜坑が主たる生産坑になるまで凡そ200年間、ここが本鋪であり続けた。背後の平坦地には鋪方役所があづて、負夫によって運ぴ出された鉱石は重さを計づて買い取り、砕女小屋へと運ばれた。
上方一帯、ヒノキの木立の中には、山方と呼ばれる坑夫の住宅が並んでいた。
※現在も稼行許可の日に大山積神社(新居浜市角野新田町)にて、在浜住友連系各社による例大祭が斎行されている。
元禄3年(1690)、田向重右衛門一行が別子銅山見分の際、難路踏査の末、このあたりで露頭を発見して試掘し、有望な鉱床を確認できて一行が大喜びしたことが由来で、翌元禄4年(1691)、最初に開さくされた坑口が歓喜坑と命名されました.
  歓喜の鉱山89ページ


‎5月9日は、元禄4年(1691)住友家が江戸幕府から別子銅山の開坑許可を受けた日です。
別子銅山記念館では、1975年の開館以来、毎年この日にちなんで「歓喜の陽光(ひかり)」鑑賞会を開催しています。
5月9日正午に展示室天井の直径40センチの窓から日光が差し込む設計となっており、
晴天時には神秘的な一筋の光に触れることが出来ます。

2023‎年‎5‎月‎9‎日、‏‎12:02撮影

歓喜坑の坑口西に風呂が記されている。女性が描かれている所を見ると混浴であったようだ。
  (明治初年ごろまで日本の風呂は混浴であった。)
風呂場の階下には、素石を選び 鉱石を砕く砕女場があった。女性の仕事であった。
平成13年10月31日、老朽化した歓喜・歓東坑が住友金属鉱山によって修復された。
 四ツ留枠という形式で江戸時代の間符に復元された。直径30㎝にも及ぶ無節の桧丸太は
 住友の森で育まれた良材である。別子の山に、このような古い文化が蘇ることは良いことだ。
    山に抱かれて_118ページより

文献の記述による歓喜・歓東坑
立川歓喜坑と別子歓東坑は明治時代(明治元年1868)までの旧別子銅山の出鉱坑口として機能した。
歓喜、歓東間符はほとんど同水準にあり、歓喜間符の開坑が先である。
標高は、明治35年8月の測図では歓東間符の方が高い。歓喜1202.1m、歓東1203.5mになっている。
  鉱山技術・別冊「間符」
歓喜・歓東両間歩は早くより鋪内で抜け合っており、前述の宝暦11年の覚書にも、歓喜について「開基より稼候鋪」とあり、歓東について「当時稼候鋪内也、尤是より歓喜間歩へも通路致候、両間符鋪内二ては一所二取合せ有之候」とあって、両間歩についてのみ稼行のことを記している。
  住友別子鉱山史上巻 70 ページ
歓喜坑が開坑して間もなく歓東抗も開坑する 最初は歓喜坑が別子本鋪だったが 60年が過ぎ
立川鉱山と合併した頃から歓東坑が産銅量が増えだす。
「別子立川両鉱山鋪内絵図」に坑内の様子が記されている。歓喜坑からは大和間符・大黒間符・
都間符・太平間符と立川鉱山と繋がっています。そのため「立川本鋪」と呼ばれていた。
一方 歓東坑は大切間符・天満間符・三角まで繋がっていて「別子本鋪」と呼ばれていた。
歓喜坑のほうが有名ではあるが産銅量から言うと歓東坑がはるかに多かったようだ。
明治20年代に入ると生産ラインのメインは完全に東延斜坑-高橋製錬所となり、山方-木方ラインは完全にその機能を閉じた。従って歓東間符に続いて凡そ10年後には立川本敷であった歓喜問符も一旦閉塞されたのである
  山村文化23号22ページ

2017年修復された。
2017‎年‎3‎月‎1‎日撮影   
   2001年10月31日修復
別子山村 役場アルバムより 
   昭和49年(1974)撮影
文献の記述による歓喜坑
別子銅山開坑当時から別子鉱山の本拠地が東延に移る明治初期まで凡そ200年間、ここが本鋪であり続けた。
立川歓喜坑と別子歓東坑は明治時代(明治元年1868)までの旧別子銅山の出鉱坑口として機能した。
元禄15年(1702)
一 歓喜間符 東西武百九拾七間餘切渡り申候
振興意見書資料5 によれば、歓喜、床屋、中西山の三坑道は連絡していた
山の合併後は立川方の鉱石は歓喜間歩から運び出したが、その鉱量は僅かで・・・
  別子銅山図録_解説_16ページより

2017年修復された。
‎2017‎年‎3‎月‎1‎日撮影   
 2001年10月31日修復。
別子山村 役場アルバムより 
   昭和49年(1974)撮影
文献の記述による歓東坑
元禄15年(1702)
一 歓東間符 東西弐拾五間切渡り申候 土底にハ百四拾間餘切下り申候
 右之間符二而只今銅掘申候
宝暦12年(1762)の両銅山合併の頃、南側歓東坑の排水は代々水抜坑から
  鉱山技術・別冊「間符」
別子方の鉱石の大部分は歓東間歩から持ち出された。別子本鋪の主要鉑掘場へ赴くため鉱夫の往来した歓東間歩の鋪道は、また別子本道ともよばれた。鋪方役所は立川合併後はもとより歓喜・歓東両間歩の坑口に置かれているが、おそらく別子の創業時に近い頃から同じ場所に設けられたことと思われる。別子銅山の中櫃として漱東間歩の鋪道がしだいに深く切り下げられて、東西上下に鉑掘場を索めて切り渡されていったのであろう。宝永7年(1710)5月地震があって、歓東間符内の平九郎坪土底の鉑掘場の天井が崩落して東西20間ほど潰れたが、平九郎坪はその頃第一の稼場であったと報告されている。
さて間歩口から下り詰めの土底まで、正徳3年(1713)7月に300間余、享保3年(1718)2月に360間ほど、同10年」(1725)に480間余、宝暦十一年(1761)600間ほどと記される。これらは幕府や松山藩御預り所に対する報告に見えるもので大概の間数であろうし、宝暦11年の記録に表向きの申立は180間ほどとするとあり、多少は誇張して記すこともあったらしい。
これらはいわゆる別子本鋪の間数をさしたものである。
元禄12年に2間樋60挺で涌水を引上げていると見えるのは、この本鋪の涌水であろう。正徳3年7月の覚書には「只今間符口汐土底迄300間除堀下り水涌出申二付、樋数百武拾挺籐建込書夜涌水を引上申候」とあって、やはり本鋪の樋引をいっているようである。この覚書には樋9尺から1丈、内法3寸から3寸ヒ八分と記される。また延享3年(1746)の覚書には樋長さ1丈一尺、内法3寸78分から4寸4方とある。しかしその後の記録には大角は長さ1丈二尺、内法4寸四方、小角は長さ1丈、内法3寸3分四方と定まってきており、小角は底部で使川される場合が多い。享保7年の記録に鋪内樋数119挺の配置場所・樋引人数の割当・大小角の配分が明細に記される。また「銅山御川覧」には、宝暦中頃の同じく樋数141挺について同様な記載がある本鋪内の涌水は元禄年間の東山大水抜の工事は中途で放棄せられて、歓東間歩口の線まで引上げるほかはなかった。
   別子銅山図録_解説_16ページより
天明5年現在別子本坑の深さ等1)歓東坑坑口と切羽(大左本銀伐)の位置関係坑口から先端切羽までの距離L=1080間(1963m)高低差H=204.75丈(620m)坑道平均勾配θ(sinθ=H/L)=18度24分
  鉱山技術・別冊「間符」

坑夫修行のあと
手子は将来鉱夫に出世しようとする連中である。彼等は一日の仕事が終わると切鎚と馨を片手に、川原や露岩を目指して散ってゆく。そして、孔劃やスカシ掘の練習をする。これら一連の訓練を鉱夫修業といった。
優秀な鉱夫を多く抱えている飯場頭は其の仲間では上席であった。鉱山側へも顔が利き、従って、条件の良い採掘場が与えられるわけである。今は廃虚となった旧別子を尋ねる人はどこかで孔だらけの岩肌を発見するであろう。
明治の別子58ページより 要約
歓喜坑の上に看板
歓喜坑のタンク
歓喜坑のすぐ横に木で化粧された構造物がある。旧別子俯瞰図や案内板が取り付けてある。
この構造物はなんだろうか? 左の方に回ると扉があって、中に入ることができる。中は意外に広く避難小屋として使われている。上左の写真はリニューアル工事中の写真もある。
 山川静雄さんの話
「歓喜坑の左にあるコンクリートの箱は太平抗に水を送るためのタンクでる。二代採鉱時に作ったと聞いた。」 と伺いました。(2022年1月18日 生涯学習センター「よくわかる別子銅山」③ 講座にて)
二代採鉱というキーワードで山村文化を検索していると23巻26ページに伊藤玉男さんの寄稿で
 「大正末期か昭和初年に坑内用水のための水タンクを造り、歓喜坑を通して太平坑の二代採鉱用に供していたが、」 とある。
ヘビノネゴザ(蛇の寝御座)  別名 カナヤマシダ(金山ソダ)
歓喜坑の周りにシダが生えている。
 見分け方は葉の裏に包膜がカギ状になっている。

ヘビノネゴザは、亜鉛やカドミウムや鉛や銅などの重金属によって土壌が汚染されていても、耐えて生きる能力を有している[1]。このため植物に毒性の出る鉱石を産出している鉱山や、その廃鉱などで、他の植物では枯死するような濃度の鉱毒に耐えて生育できる(ウィキペディアより)
このヘビノネゴザという、シダは銅や鉛や亜鉛などで汚染された土壌が大好きなのである。ということは、鉱山は彼らにとっては大変住み心地のいいところなのである、それ故に別名カヤマシダとも呼ばれている。昔の山師と称する鉱物探索者はこのシダを求めて谷を登り鉱脈を発見したと言われているが、そのような例は過去にしばしばあった。  山村文化27号32ページより
歓喜・歓東坑 2017年修復工事風景
2017‎年8月18日 ‎9‎月‎18‎日 作業中にお邪魔させて頂き、撮影とお話を聞かせて頂きました。
重機は分解して、ヘリコプターで運んだとの事。人間は毎日新居浜市内から通勤でした。
通勤路は?  日浦谷の林道を登る。下部鉄管道で素麺の滝へ、少し登り、歓喜坑付近まで古道を修理して使った。トラックを降りて50分ぐらい新居浜市内から2時間ほどだと聞いた。歩いてみたが毎日となると、大変だ。
 拡大 出来ます
歓喜坑の上方一帯が住宅地であった。山方と呼ばれ、別子山中でも海抜1200mの一番高いところに位置するの部落であった。別子銅山発祥の地で昔から別子銅山の中心地でもあり 初めて人間が住みついた所でもある