高橋      対岸へ渡る橋があって、それが川底からかなり高いところに架かっていたことから、高橋と呼ばれれていた。  
 
     高橋精錬所と沈澱工場
対岸の高い石垣は高橋製錬所跡である。この石垣は更に300m上流まで続いているが、この対岸には明治20年代になって建設された洋式熔鉱炉(左)と沈澱工場(正面)があった。
明治28年から政府は環境問題に規制を設け、製錬の際に出る鉱滓を直接川に流さないことにした。
そこで製錬所前には暗渠を築いて流水を伏流させ、その上に鉱滓を捨てていたので、一時前の谷は鉱津堆積広場になっていた。それが、明治32年(1899)の風水害で堆積広場は流され、暗渠も大半が潰れて元の谷川に戻った。
ここに残る暗渠は当時の様子をかすかに伝えている。
正面には沈澱工場といって、銅の品質が低い鉱石を砕いて粉末にし、水を使って処理する湿式収銅所があったが、明治32年の水害以降その設備が小足谷に移ってからは、目出度町の近くにあった住友病院が一時期移転していた。
※鉱滓:鉱石を製錬する際に生ずる不用物
       
   
   明治中期の別子銅山(明治の別子_伊藤玉男著)より抜粋 加工
   
       
  劇場跡の看板から上流を望む。下の道は登山道で黒橋経由ダイヤモンド水へ。真っ直ぐ進みと 高橋に行くことが出来る。高橋への道は整備されていない。    の地点 巾の広い道が続く
       
   黒橋    
   
  黒橋 劇場跡から1・2分で到着します。 手摺が黒いから黒橋というのではなく昔から黒橋と言っていました。
地図のです。
  足谷川の水。透明できれいな色をしています。公害など関係ないような色です。しかし、魚影を見ることはありません。 
       
 
  の地点 石垣が続く 下に降りると右の排水口がある     の地点 排水口
       
   
   付近 山際に残された煉瓦  「病院長の暖炉」との記載があった。暖炉なのだろうか?と思う   付近 高橋の階段 この階段を上がると病院跡だ
       
   住友病院跡    
       
  大正元年~5年まで 高橋の住友病院 
東平の建物とよく似ています。場所は高橋の収銅所の跡地です。基礎の跡が今も残っています。
「住友別子病院百年のあゆみ」では明治32年からは別子出張所として大正5年まで診療している。
明治34年5月 腸チフス患者が蔓延し 死者18名を出している。
  別子山の人口は
  明治34年  9635人 
     38年    11186人
     39年    10428人 
     40年     4417人 
   大正5年      813人   (別子村史)  
別子大水害後も人口が増え 明治38年にはピークを迎えている。
大正元年8月25日に、ここ高橋に新築落成移転している。
人口が急激に減少しているさなか、なぜこのような大きな病院を建築する必要があったのだろうか。
   
   
  の場所に建っている看板    対岸に見える看板は左記のもの
       
 
  絵葉書「別子鉱山住友私立病院」 手前に橋の欄干が写っている。
橋の基礎が今も残っており測量してみると橋の長さは 13.8mある
   
 
  絵葉書にも写っている排水溝。よじ登って寸法を測った。中は少し奥で潰れていた。   深い穴がある。いろいろ想像は出来るが何だったのか わからない。氷室という話も聞いたが定かではない。
       
  溶鉱炉    
       
  病院が建設されるまで、ここには溶鉱炉があった。明治32年の別子大水害で大きな被害を受けた精錬所は新たに建設することを諦め、沈殿施設や病院などが建設された。
   
  明治14年撮影
前岸から後岸を見上げたもので、写真中央には、煉瓦煙突のある熔鉱炉の建物、その奥にシュートが見える。
住友史料館報28巻72ページより 

右の岩山の上に焼鉱炉が建ちならんでいた。左の人物がいる辺りがダイヤモンド水の広場
山村文化32号_28ページ
  (2)高橋製錬所
別子銅山近代化起業の指針となった『別子銅山目論見書』を作成したラロックの提言に基づいて、旧別子の高橋に建設された製錬所です。当初は低品位鉱を一番吹にかけて粗銅までを製錬する
役割を担っていました。
製錬施設の新居浜への移転に伴い規模が縮小される予定でしたが、後に山根製錬所と新居浜(惣開)製錬所の煙害問題発生によって、四阪島製錬所完成までの問、再びその規模が拡張されることになりました。しかし、明治32年(1899)の別子大水害の影響で、その施設のほとんどが大破し、製錬機能を失う結果となりました。
●建設年:明治12年(1879)着工、完成
●操業年:明治13年(1880)~明治32年(1899)
●廃止年:明治37年(1904)
歓喜の鉱山 66ページより 
   
     明治14年撮影 手前の熔鉱炉を銅山川の下手から見上げたもので、煉瓦煙突が林立した新熔鉱炉の建物が見える。
住友史料館報28巻72ページより

  建物の手前に斜めの階段が写っているが。こ階段は現在もそのまま残っている(上の写真)。階段の後ろ何もなく、建物が建っていた石垣は崩れている。崩れた後の様子から見ると、そんなに古い時代とは思わない。
  手前の溶鉱炉の後ろに見える建物は、谷の対岸ある、炭蔵で現在のダイヤモンド水付近です。後年、ここから上に社宅が建ち、溶鉱炉で働く人たちが住んでいたので、ヨーコー炉部落と呼ばれた。
   
  焼鉱窯って見たことのある人は少ないと思います。電気釜や羽釜とはちょっと違います。旧別子には3か所残っています。いずれも登山道から離れていたり、道のない藪の中です。
歓喜坑西の焼鉱窯

明治31年撮影 鉱山製錬課(吹方)に隣接し、同所へ焼鉱を供給した焼鉱窯である。旧式とあるのは、江戸時代以来の石積みの焼鉱窯を指すもので、風雨避けに粗末な木製の屋根と壁で覆われていた。焼鉱窯は、鉱石の硫黄分を抜くために、窯の中で鉱石と薪を交互に積み上げ60日ほど蒸し焼きにした。写真右端には焼鉱用の薪が野積みされている。
住友史料館報30巻25ページより 
   
  この写真の場所はどこでしょう?


上記写真は明治32年8月の大水害時の写真です。同じ建物と思われます。左記写真は前年の9月に撮影されていますので1年足らずで被害にあった。
   明治31年撮影  高橋の製錬工場である。キャプションに旧工場とあるのは、間吹(二番吹き)に新居浜製錬所のような最新の錬銅反射炉を用いず、江戸時代以来の間吹炉を用いたからである。
明治28年以後、高橋製錬所は、新居浜製錬所の煙害問題により、新居浜減額分の増産を余儀なくされ、水套炉一座・煉瓦炉四座(以上一番吹設備)、間吹炉一六座(二番吹設備)を装備し、前年廃止した別子製錬所を出張所として再開した。
明治29年、煙害問題解決のため新居浜製錬所の四阪島移転か、高橋製錬所増設かの論議がなされ、結局四阪島移転と決議された。
しかし、その完成まで高橋製錬所の増産は急務であり、翌30年から煉瓦炉の廃止や水套炉の増設、銅山川への暗渠築造など設備刷新が図られ、31年には水套炉三座、間吹炉一八座を装備していた。写真は、まさにその設備を刷新した直後の雄姿である。製錬所には水套炉が装備されているので、建物から勢いよく循環水が排出されている。
また、対岸の製錬所へ送水するため、木製の水樋と支柱が見える。
製錬所右手の作業場は銅山川にかかる暗渠である。その作業場には、鉱滓を搬出する鉄軌道と円錐形の鉱滓廃棄壺が写っており、壺の形をした鉱滓が数多く捨てられている。
住友史料館報30巻24ページより 
   
 
   ①カラミトロッコ? ②カラミ
 
  ③ガス灯? ④煙突?
 
  ⑤水路  ⑥先端
     
  ①四阪島で使っていたカラミ電車の旧別子バージョンかと思う、溶鉱炉で出来たカラミをトロッコで運んだ用です。上の解説では鉱滓廃棄壺となっています。四阪島も円錐系をしています(愛媛県総合科学博物館に現物あり)。スポッと抜けそうです。
  ②スポッと抜けたカラミ。周りのカラミが細かく砕かれている。旧別子に残るカラミも大きいものは丸くなった所が残っている物もある。川にあるものは転がって角が取れ丸くなっている。
  ③ガス灯だろうか?。石油ランプだろうか。電気でない事は確かである。屋外にもこのような照明があるという事は溶鉱炉は夜も稼働していたのでしょうか。
  ④屋根の上にのっかっている物です。拡大するまでは煙突と思っていました。煙突ではちょっと形が変ですね。私は樽のように見えます。
  ⑤ 真ん中を横切っています。坑水路のような箱型の水路が見えます。上記解説にあるように水が通っています
  ⑥右端に写っています。カラミをトロッコで先端まで運び埋め立てに使っているようです。
 
  遥かな峰 探訪・別子銅山(製作 住友金属鉱山)テープの中で、谷を暗渠にして上に盛土をし平地を作ったと解説しています。

この上に鉱滓(カラミ)を捨てていたのが上記の写真です。
 
  明治28年3月15日に至り、農商務省所管の大阪鉱山監督署は足尾鉱毒事件の影響もあり、別子鉱山に対して鉱毒防止のため銅山川の渓流15か所に鉱滓流出防止の石垣を設置するよう命じた。これに対して別子では、鉱滓発生源である高橋製錬所の沈澱所前に鉱滓と沈澱滓によって暗渠(鉱津堆積所)を築けば、予防に効果があるだけでなく、暗渠によって両岸が結ばれ事業上にも便利であると、工事変更願を提出して許可された。-中略- ようやく、翌29年中に沈澱澤流出予防の暗渠は完成したが、鉱滓は依然として渓間に投棄されて不十分なものであった。そのため、明治30年6月住友では別子に坑水収利委員会を設けて、鉱毒防止と収銅の万全を図ることを企画し、鉱滓堆積所と坑水脱馨所の設置を次のように決議した。
①寛永・東延・小足谷の各坑道出口に、沈澱池・濾過池を設置して、坑水の脱磐に努めること。
②高橋製錬所(溶鉱課)と溶鉱課出張所(旧別子溶鉱課)前の両渓間にそれぞれ暗渠を築いて、鉱滓堆積所とすること。
③焼鉱窯には、すべて排水溝を設けて雨水の浸入を防止すること。
こうして、明治30年11月28日伊庭別子支配人は、以上の工事竣工届を大阪鉱山監督署に提出したが、実際は高橋の鉱倖堆積所工事が遅延ぎみであった。ようやく、翌31年9月それも竣工して、ここにすべての鉱毒予防工事は完了したのであった。これは別子全山の流水沈澱設備の完成も意味していた。これにより、明治31年の流水沈澱はその効果を大いに上げ、「鉱毒予防上、最モ注意ヲ要スヘキ銅塩類ハ殆ント、之ヲ(沈澱銅として)収拾シ得、所謂一挙両得」の結果を得たのであった。  住友別子鉱山史上巻476ページより 
 
       
  暗渠    
       
 
  「足谷川には、50Mに及ぶ石造りの暗渠がかけられ」と旧別子銅山案内6ページにある。今、残っているのは この部分だけです。明治32年(1899)年の大水害のときに流されました。 登山道から見えていましたが、最近は木々が茂って見えづらくなっています。黒橋付近の登山道にカラミがたくさん落ちていますが、大水害の時に暗渠の上に乗っていたカラミが流され現在に至っていると思われます。
  山村文化27号27ページで伊藤玉男氏は「足谷川の本流を包み込んだ暗渠の長さは200mほどもあったのであろうか」  と書いているが、正確なところはわからない。不思な事に残っている暗渠は中間地点でもにもかかわらず、小口かきれいで、ここが始まりの場所のように思えるのである。いくつかのパートに分けて突貫工事をした証だろうか。上流側に降りてみると右岸にアールの付いた石垣を見ることができる。大水害でかき取られた事がわかる。
   
  巻揚機    
  上記地図の上部に〇に捲の文字が見える。これは「巻揚機」の記号だと地図に書いてある。
行ってみた。
   
       
    西岡氏がダイヤモンド水からドローンを飛ばして崖の上に構造物を発見した。
上から見たら発見できるだろうが、ドローンを持たない私は、地図にある記号を頼りに登っていた。臆病な私は危ない所はいかない。遠回りをしながら登った。2回目に西岡氏を案内した時は、スイスイ登れた。上からみるダイヤモンド水は絶景かな。
 ダイヤモンド水の対岸に岩だらけの崖がある
この崖の上になる。
 西岡氏より→
       
 
  旧別子撤退の大正5年までに設置されたのであれば、もう100年あまりになる。雨ざらし陽ざらしで、こんなにきれいな状態で残っている。機械の知識がなく、何なのかはわかりません。
       
 
  こんな崖の上に愛量のレンガが残っている。かなり風化しているが圧倒される。右の写真の所に巻揚げ機が座っれいたのだろうか。レンガの上にボルトが何本も突き出している。レンガの隙間を見下ろせば ダイヤモンド水の下流に位置する。物資を上げたのか、下ろしたのか?  
       
 

2022/09/29