重任局と大山積神社
元禄7年(1694)の大火の後、歓喜問符の隣にあった勘場がここに移され、
明治12年に重任局と改称された。明治25年の火災で焼失するまでは銅山の指
令所として重要な位置を占めていた。火災のあと重任局は木方に移ったが、そ
の跡は元禄4年より銅山の鎮護の神として奉られていた大山積神社が、対岸の
延喜の端から遷座した。
また、モミの大木の向う側には別子山村役場があって村の行政もここで執行さ
れていた。
左の広場には住友新座敷と言う来客接待所があったが、大山積神社の遷座と
同時に、その跡が相撲場となり、5月の山神祭には大いに賑わった。
下方一帯はで商店の他に料亭や郵便局・小学校なども軒を並べ、対岸
の一段高い所には住友病院もあった 
       
   目出度町の大山積神社

元禄4年(1691)の別子銅山開坑まもなく、鎮護の神として大三島の大山祇神社から分社 別子銅山の守護神として杷ったもので、祭神は天照大神の孫環々杵尊の妃、木花咲耶姫命の父君大山祇神で天照大神の兄神に当たるとのことである。
別子銅山労働者の氏神として崇敬され、鉱夫が入出坑する際には、必ず坑口に奉られている御祭神を拝礼していました。

社地は次々と変わり 現在は新居浜市角野新田町の根製錬所跡に社地を定めてお祀りしています。
   
       
   
   鳥居・手水鉢・石燈籠・狛犬・など 石の建造物が多く見られますが、今はそのほとんどがありません。
   
     
   狛犬の右の一対は大山積神社の本殿のあった場所に置かれています。
       
         
     
     
大正5年別子銅山の拠点が東平に移行し旧別子から撤退しました。

しかし、大山積神社はそのまま この場所に鎮座することになります。

昭和3年鷲尾勘解治の手によって今の場所に正還座します。
       
   
   玉垣は生子山の奥の宮社に移されました。旧別子時代に活躍された小池鶴三・本庄種之介の名前を確認できます。明治32年の大水害で亡くなられた志尾寛一・筒井岩太の名前もあります
 
       
   延喜の端→目出度町→山根    
       住友家は.元禄四年(1691)6月、越智郡大三島の大山積神社より大山積大神を勧請した。
社は縁起(延喜)の端の小高い岩峯を切り平して造営した。足谷山全域が見渡される恰好の地で、現在のパノラマ展望台がそれである。社殿は北に面して歓喜坑と向い合っていた。
   明治の別子118ページより
  登山道に「延喜の端」の看板があり 2~3分で行けるので足をのばしてもらいたい。
旧別子が一望出来る場所でもあり、蘭塔場・目出度町が身近に見える。
   
       
     
   明治14年撮影の旧別子の写真です。赤丸の部分は「延喜の端」の大山積神社です。
1691年から1893年までの202年間 この場所から別子銅山の繁栄を見守ってきた。
   現在の「延喜の端」一番高いところに大山積神社があったこちら向きに建っていたようです。広くはない場所であり「社殿は北に面して歓喜坑と向い合っていた」となると、小さな社だったと思わざるを得ない。
       
      明治20年代の目出度町の写真です。中央の階段が今も残っています。
の建物が「重任局」です。この建物が木方に引越をして、明治26年(1893)その跡に大山積神社が延喜の端から移ってきました。
昭和3年(1928)山根に正還座するまでの35年
間 ここで人々の信仰の中心を勤めていました。 

       
      その後大正5年(1916)1月採鉱部門の拠点が旧別子東延から東平に移転し、ほとんどの施設が撤去されたが、大山積神社はその後もしばらく旧別子に置かれたままになっていた。
昭和2年(1927)10月山根の内宮神社に仮遷座を行い、昭和3年(1928)2月20日、上棟式が行われ、同年5月1日川口新田(現角野新田町)の現社地に正遷座した。神社の敷地整備は、さむ社員の作務(いわゆる勤労奉仕)によって行われ、社員、関係者たまがきからは瑞垣燈籠などの寄進があった。この遷座は当時の別子鉱山の最高責任者鷲尾勘解治主導のもとで進められた。鷲尾は、「末期の経営」を唱えて別子銅山閉山に備えて新居浜との共存共栄策を展開した人物である。彼は、忘れ去られようとしていた神(=自然)への感謝報恩の念を大山積神社の遷座によって改めて問おうとしたのである。     別子銅山記念館発行「神社と祭り」より
       
       
   別子鉱山鉄道略史82ページに上記地図があります。昭和3年~昭和5年神社遷宮と記されてあります 現在の住友重機の工場内です。惣開小学校もここにあった。
   
   住友機械では守護神を大山積の神と定め、神社を構内門前西北隅に建立し、5月19日のタ刻に御霊移しの式典を挙行することに決定した訳であります。大山積神社三島官司が来られ御霊移しの行事が行われました、そぼ降る小雨の中をタイマツを先頭に暗夜の中で行事が厳かに進められ、滞り無く工場の守護神が鎮座されたのであります。
鳥居の金文字額は小倉総理事の執筆になるものであります。
      「私の会社生活四十余年回顧」亀井清太郎著 益友より 
       
       
       四阪島の大山積神社住友が四阪島を買収する以前は,家の島西南に位置する小島に美保神社があった.宮窪村信徒総代が宮窪村本社小野八幡神社に合併を願い出て,明治41年3月24日に本社への遷霊が行われたよって,同年4月30日大山積神社から分霊を奉戴することとなった

「別子銅山産業遺産の残存状況について~四阪島」 吉村久美子著より
       
      東平の大山積神社

東平に大山積神社があったのは、事実である。
しかし、史実には出てこない。
色々の書物には「目出度町から東平」と書かれているが、言伝えのようなもので別子銅山記念館発行「神社と祭り」にも一切記載されていない。
東平の住人の有志によって建てられたとも聞くが定かではない
   原茂夫撮影    
       
       
       
       
  8.山神宮祭祀神輿渡御ノ行装(其一)
大山積神社、秋の例祭の様子を3面に亘って描いた其一の景。焼鉱竈の並ぶ小高い丘の頂きに在す神社から2台の神輿がまさに渡御しようとする荘厳な光景である。沿道には大山積神社の神紋である「折敷三文字」が描かれた御神燈を始め多くの提灯や、長細い住吉提灯が立ち並び、その間を人々に担がれた別子、立川の神輿が御旅所に向けて下がってゆく。一基は拝殿の前で勇ましく担き上げられているようである。絵図の右隅には「九月九日山神宮祭祀神輿渡御ノ行装神輿二基(一基 別子一基 立川)駕輿丁人ハ山方下財床屋下財隔年ニ努ム」と説明が入る。傍らの狛犬には「木方吹方」の寄進名も見える。今でこそ、大山積神社の祭礼は正月の「大鉑祭」と5月最初の「山神祭」を指しているが、当時は勧請元の大山祗神社の秋の例大祭(抜穂祭、一人相撲で有名)に倣って旧暦9月9日に行っていたのである。この頃の神社は、強風を避けるためか本殿が高い石垣で覆われ、その後ろは絶壁の様に切れ落ちている。その様子は、明治14年撮影の「別子鉱山写真帳」で偲ぶことが出来るが、正面に神社を捉えたアングルがないのが惜しまれる。むしろ、明治11年に来山したクルト・ネットーの写生画で当時の全景を知ることができるのは幸いである。明治23年の「別子開坑二〇〇年祭」では、新たに3台の太鼓台が作られたというが、それ以降の祭礼の詳しい様子は不明である。おそらく明治25年の勘場の火災で「ミコシ蔵」も焼失し、祭祀具を失ってしまったことも原因しているかもしれない。
     田邊一郎 「いちろーたの別子銅山オタクサイト」より 
   
   他にも高解像画像や解説が公開されています    
  https://userweb.shikoku.ne.jp/mineral/siitei1.htm     
       
    最後の大鉑祭で使用された大鉑が別子銅山記念館に展示されている    
   大鉑祭はずばりいって山師家内(銅山職員)の正月祭礼である。そして祭礼の中核は鉱夫頭である。私は大鉑祭の由来を尋ねて、可能性のありそうな全ゆる場所へ足を運んだが結局は判らないと言う事を確認したに過ぎなかった。ところが最後に新居浜市立図書館長の難波江昇氏から大鉑の歌の原形は鉑引歌であるという言葉を伺って躍如した。大鉑祭の最高の出しものは大鉑の歌である。大鉑は元来、木馬に乗せて引くものであったが、山神社が下界に遷ってからは担ぐようになった。松葉氏の記憶では東延から木方の熔鉱炉まで引きずったというが、更に以前は別子の本鋪、即ち歓喜坑から引かれたのであろう。この運搬の途中、掛け声の代りに唄われたのが鉑引歌であり 後の大鉑の歌なのである。
そしてこの行事を採配したのが小鉑を胸に先頭を行く元老と言われる山留であり、後の上席担当鉱夫頭なのである。また引き手は鋪方の中から選ばれた優秀な連中で、やがて役付に出世するような者ばかりである。紋付姿の鉱夫頭が一小節を唄うごとに引き手達は間の手をいれて唱和するのである。この大鉑の後に着飾った山内の稼人や女房や子供たちが一大行列をなすと言うのだから、まさに豪華絢瀾という外はない。
   明治の別子126ページ 伊藤玉男著 より
   
       
       
       
     
   深い眠りについた旧別子の大山積神社
  その周りを取り囲む 鎮守の森
    鬱蒼としていて、鎮守の森にふさわしい所だった。

別子の山を緑に帰した伊庭貞剛の努力が実を結び神様も安らいでいたことであろうしかし 2018年 狛犬のすぐ裏の木が伐採され光が燦燦と射し込む姿に豹変した。
すぐの上に鉄塔があり送電線が通ている。木が送電線の邪魔になるのか、刈られてしまった。高い木は仕方が無いとしても、低木はそのままにして置いてもらいたかった。
  2020‎年‎7‎月‎30‎日、‏‎13:17撮影