トラス橋    登山口からの所要時間  50     
       
      この辺りの地名はトラスバシという。
正面にせり出している熔岩の様なものは製錬をして銅を採った残りの酸化鉄である。これをカラミ(鍰)という。カラミがあるということは、ここにも製錬所があったという何よりの証である。
写真では無数の焼窯が建ち並んでいるが、その前は溶鉱炉があったことになる。このように別子銅山では古いものが新しいものへと、しばしば入れ替わっていた。
 焼鉱の工程は、焼窯という石囲いの中に多量の薪と生の鉱石を交互に積み重ねて燃やすと1ヶ月ぐらいで硫黄が燃えて発散し、後に銅と鉄からなる焼鉱が残る。続いてこれを荒吹炉に入れて、更に次の間吹炉に入れて淘汰すると、銅の含有率が90%ほどの粗銅となる。
右の岩山の上に高く積まれているのは焼鉱用の薪である 
       
   
  案内板から下を見るとせり出しているカラミが見える。2018年の台風の時白い〇枠の石が流された。 このカラミは登山道から見たり、トラス橋からも見えるが、木々が大きくなり見るにも困難になりつつある。
       
   
  川底の部分は大きくえぐられていて、下から覗くと小さいカラミの寄せ集めのようでもある。 
       
   
  トラス橋から見えるカラミ。木々に隠れて見えなくなるのももうすぐです。   案内板の写真の所ですが木々に覆われて何も見えないのですが、現地に行ってみると、立派な石積が残っている。裸の山にして見て頂きたいと思う。
       
  吊橋ですが「トラス橋」と呼ぶわけ 
   一番上の写真を見て、どう見ても吊橋ですね。なぜトラス橋と言うのでしょうか?
    トラス橋とは桁(けた) 部分に トラス 構造を使った 橋 である。 トラスは細長い部材を両端で三角形に繋いだ構造でありそれを繰り返して桁を構成する
     マイントピア別子にある、打除鉄橋がトラス橋です。
単純曲弦トラス橋とか、ピントラス橋などと言われています。
     
  トラス橋・現在は吊り橋この橋は今は吊り橋の形になっているが、昭和43年、東平閉山の際に架けかえる前は木製のトラス橋であった。
そのトラス橋の由来は分からないが、大正5年以前からあったのは間違いないだろう。
だから今でもこの辺りをトラス橋と呼んでいる。     山村文化32号32ページ
   
  別子銅山が280年余年の永い歴史を閉じるに当たり別子銅山記念館が建設された。
そのほかにも関連事業があり、そのひとつに(10)トラス橋補強工事一式があった  
 
   着工昭和49年7月15日と
記されていたので、工事前の写真でしょう。木造の橋です。大正5年に旧別子を撤退しているので撤退前ですと60年近くになります。途中で手を加えているような気がします。この写真の橋ではトラス橋と言えないと思います。これ以前の写真は出てきません。
 
   完成写真
完工昭和49年9月20日

ここで吊り橋になっています
前の橋はなるべく残したかったのでしょう。ワイヤーで吊っています。
 
       
    平成18年(2006年)9月23日 撮影

昭和49年以降でもう一度橋の修復が行われています。この時は完全に吊り橋になっていますが、いつ施工されてかはわかりません。
       
       一番上の写真。現在の橋は
平成19年11月に施工されたものです。
橋にラベルが貼っています。見えづらい所です。探してみて下さい。
       
 

2022/07/04