木方吹所と裏門
明治20年頃の木方吹所(製錬所)を南側から見上げた風景である。中央左寄りに土橋があり、その右下で谷が分かれている。右が足谷川で左の方を奥窯谷という。足谷川に面して右の山側に建ち並ぶのは木方吹所である。この時点では高橋製錬所よりもこちらの方が産銅量は勝っていた。
右上から斜めに箱樋が掛り、その左で白煙が上がっているところは明治13年から生産が始った最初の湿式製錬所(沈澱銅)の施設であろう。
左の巨大な両面石積の向こうは木炭倉庫で、その真上にも石積が天に突き出している。当時の和式製錬では1トンの銅を作るのに4トンもの木炭を使っていた。木炭は食糧に次ぐ貴重な物で、従って銅蔵や木炭倉庫の建ち並ぶ鉱山の心腱部の入口は石垣や柵で厳重に囲まれていた。因みにこの辺りを裏門と呼んでいた。
 
       
       

登山道脇に「裏門」と書かれたプレートがあるのみで
当時を物語るものは何もない。
       
    裏 門
ここは字名とは言えない程で、家が二、三軒あり、別子銅山が立川銅山と合併して、表門が角石原又は銅山峰にあり、即ちこの地に裏門が建っていたのである。今では跡形もないが、明治32年の大水害までは平らな石を畳み上げて門柱としていた。後この門が廃物となり、その番小屋は労働者の住宅となったのであろう。この南東の谷が風呂屋谷、奥がまなどであるが、家は一軒もなかった。
  別子山村史942ページ   
   
 
 
パイプ橋を渡らず直進すると裏門です。
 
このパイプを並べている橋を俗に鉄管橋といっている。
第一通洞南口や東延斜坑に通じるこの鉄管橋は、そんなに古いものではない。
別子鉱山では新しい鉱源を求めて下へ下へと掘りさがっていったが、戦後になって、江戸時代に掘った上部の方にまだ残鉱が相当あるんじゃないか、ということになり、昭和二〇年代から上部開発起業をはじめた。その作業用の水が多量に要るものだから、こちらの奥窯谷の水を三インチのパイプを使ってサイホンで南口まで揚水していたのだ
。鉄管橋の鉄管は、そのときのパイプを転用しているものである。       
山村文化32-33

← 今の橋はH鋼を使っているが以前はパイプ(鉄管)であった。
       
       
   裏門に対して表門があったのだが、文献に登場する事は少ない。
元禄の時代から新居浜側から旧別子に入っていたので、表は銅山峰に
近い方になる。別子山側からの道は裏から入ることになった。
   
       
       
 表門の文献資料    
 表門:勘場(重任局)入口に石積みの門があり、これを表門と称した。
  あかがねの故郷より 
 
全体が木柵で囲われ、表門・裏門の開閉は銅山役人の指示によって厳重に管理され、表門脇には防火用水桶も置いてあった。防火の神として稲荷社も吹所裏に祀られていた。
   住友の歴史上104ページ
 
本所の建物は甚しき破害なく、僅かに表門内通路の張盤(渓上に架したる暗僑なり)十坪許の処墜落せしのみ、既にして、風雨梢々衰うるに及び、附近の光景を各部に急報せんとするも、電話器は全く不通となり居り、山内の状況をも未だ知るを得ず。
   別子銅山241ページ
 
木方部落の最下部銅山川の左岸に別子鉱業所(重任局勘場)があり、表門の通路は張盤で作られていた。この辺の銅山旧は殆んど暗渠が架けられ、所々に雪を谷に落す穴が開けられていた。
   別子ラインと銅山313ページ
 
蘭塔場の裾を巻いていた牛車道は土持谷に架る永久橋を渡って勘場の表門まで通じていた。
   あかがねの故郷
 
   
    別子銅山
人の出入り、銅の搬出、物資の搬入、それに文化の交流に至るまで殆どが銅山峰を越えた新居浜側とつながっていたから、銅山の重要施設を中心にして西側の山の方が表になり東側の下流の方が裏になっていた。
従って、あの裏門から奥の方は製錬所と木炭倉庫が軒を並べている銅山の心臓部だったので、周りを厳重な柵で囲い何か所か出入り口をつくっていた。裏門は木炭の出入り口で、遠く寒風山や伊予富士の界隈で焼いた炭を人肩や馬の背で運んで二日も三日もかけて裏門の炭蔵(木炭倉庫)に取り込んでいたのである。
   山村文化33号28ぺーじ
   
    裏門部落(炭方部落)
吹方には銅蔵があったので、その囲りに柵が張りめぐらされていた。古図によれば柵の間に3つの門が記されている。その中の南(川下)側の門が即ち裏門である。後の両見谷部落の南端あたりにあったものと思われる。奥窯谷の分岐点から目出度町に通ずる遊歩道が尾根伝いに上って、やがて両見谷部落跡の上端に達する。この間に住居の跡を示す石垣を散見する。これが木炭関係者が住んでいた炭方の集落であり、俗に裏門部落と呼ばれていた。焼鉱には多量の薪木を必要としたように、熔鉱(製銅作業)には莫大な量の木炭が使われた。1トンの銅を採り出すためにおよそ3トンの木炭をつかった。
これを嵩にしてみるとこうである。炭俵がある(最近は殆んど見かけないが)一俵に5貫目(20キロ)入っているとすると、なんと150俵というから驚く他はない。
 (註 ガスや石油の使われなかった頃、一家の木炭消費量は1ケ月2俵位が普通であった。)
このような訳で炭方の人数は相当なものであった。しかし明治の頃は製炭に従事する者(炭焼)は数里(2.30キロ)以上離れた遠隔の地で作業をしていたので、山元に居住する人数はそれ程でもなかった。裏門付近には足谷川に沿って炭倉(木炭倉庫)が軒を並べていた。それ故、裏門に居住する炭方は各地から輸送されて来た木炭の受け入れや、熔鉱所(吹所)への供出や、これらの調整にあたっていたものと思われる。戸数は遺構から推して20戸前後ではなかったかと考えている。
   明治の別子101