見花谷は喧嘩谷、とするのが正しい  
   
   見花谷と両見谷とは奇妙な部落の名前であるが、これは酒と賭博しか楽しみがなく
何かというと、了簡がならぬ(許すことができぬ)と喧嘩沙汰に明け暮れていた昔の
下財(鉱夫)たちの部落に対して、誰からとなく付けられたものであろう。
  (旧別子銅山案内30ページ)
   
   見花谷は、その昔、坑夫等が毎度の事ながら此の谷へ出ては喧嘩したので、自然とこの名がつき、銅山が盛大になるにつけて家が立ち並び、一部落をなしその部落名となったのである。
苗字が喧嘩という字では聞こえもよくないので見花谷としたのであろう。
  (別子山村史 941ページより)
   
  見花谷、両見谷のことを調べると 明治32年の大水害の事しか書かれていない。
こうした悲しい思い出の地のある見花谷、両見谷ですが訪れてみると 谷の部落跡には植林が施されて、緑に覆われている。
しかし谷は 110年余り経っているが 岩や石がそのままの状態と思えるほど散乱している。
急な谷は 水は轟音をたて流れると言うより落ちると言った表現がぴったりだ。
こんな所にも人が住んでいたのかと思えるところである。
   
   
   明治中期の旧別子(伊藤玉男氏作)の地図
   
   登山道の見花谷橋    見花谷の上流部分
       
       
   ここで大きく曲がる    下流に見花谷橋が見える
       
       
   橋より下流。谷が養生されている    足谷川との合流地点
       
   見花谷と両見谷は旧別子の谷でも、特殊な谷です。小足谷等は小さな滝があったり、淵があったり、苔むした岩があるが これたの谷はガレ場(斜面に小さな石が転がっている地形)が殆どです。上記地図には、両谷の右岸・左岸に多くの住宅が建てられている。現地に立ってみると、どう建築したのが分からない。この辺は煙害で木が無かったはずである。今 この谷に、水の無い時の方が多い。
       
    両見谷は了簡谷、とするのが正しい   
  両見谷は、見花谷の隣で、その昔、いつまでも喧嘩してはいけない、了簡しようではないかという意味で、小谷もあり、家も建ち並んで来たので此の名が自然についたのであろう
別子山村史 941ページより 
       
   両見谷橋のプレート    両見谷の上流 山の斜面
       
       
   橋より上流部分    足谷川との合流地点 落ち込んでいる。
       
      銅山 時化 (ドウザン シケ)    
   明治32年(1899) 8月28日
別子銅山は、低気圧に襲われた。(台風と、当時は呼んでなかったようである)旧別子地区では、山津波が発生して、一瞬にして、513名もの尊い命が奪われた。
   
       
       
   見花谷部落の、被害がひどかったのは、両側の見花谷、両見谷の二つの沢が出水による土砂で埋まり、部落上部に溢れた水が洪水となって襲ったからである。   現在で言えば、”土石流”が襲ったのである。    
       
   午後8時20分から、9時までのわずか40分間に、一日の降雨量 325mmのほとんどが集中豪雨となって降り注ぎ 見花谷・両見谷の社宅を押し流しました。    
       
   
山の尾根を見上げて社宅跡を写したもの。右上の写真は現在の様子である。この石垣の上に家が建ち並んでいた。
  
   

     見花谷上部屍体納棺
     
       
    大水害
明治32年(1899)、8月28日、土佐湾に上陸した台風は石鎚山脈をこえて東予地区を襲い、昼ごろから降りだした雨は、しだいに豪雨となり、午後6時過ぎから暴風雨となった。同7時半頃からその勢いは一層猛烈をきわめ、8時半頃には最高潮に達し、全山山津波の状態となり、風呂屋谷、見花谷及び小足谷の従業員住宅をはじめご嵩橋の製錬所・収銅所・倉庫などが、一大音響とともに谷間に崩壊流失した。これはあっという間のできごとで、山津波にのまれ、地すべりに乗って、老幼男女は家屋もろとも、濁水うず巻く足谷川の激流に押し流されて行ったのである。家屋倒壊122戸、他に大破37戸、死者513名、負傷者26名を出して、暴風雨は午後10時頃やっとおさまった。
当時、鉱夫の長屋は、急斜面に木のやぐらを建てて、水平な床をっくり、その上に建てられたものが多かったから、大出水に対しては一たまりもなく崩れた。
見花谷部落の被害か特にひどかったのは、両側の見花谷、両見谷の二っの沢が出水による土砂で埋まり、部落上部に盗れた水が洪水となっておそったものである。
    旧別子銅山案内 20ページ より
   
   見花谷の地勢は、後に山を負い、前は足谷川を轍し、西方に見花谷川あり。南方に両見谷川あり。
而して災後中間を貫通して本流に流下する一條の水流あるを見る。是れ曽て無き処のものにして、見花谷川の新に分岐せしもの、又、前渓に凡そ一坪大の巨石墜落し居れり。是、亦、曽て見ざる所のものなり。以って水勢の大なるを知るに足る。
    別子銅山 242ページ より
   
    吹方部落(見花・両見谷部落)
見花・両見部落を一緒にして吹方部落としてみた。これはこじつけによる新命名ではない。かってそう呼んでいたかも知れないし、またそうすることが特殊な集落構成の上から適当であると考えるからである。
見花谷は喧嘩谷、両見谷は了簡谷とするのが正しい(別子銅山絵図)。この辺りに集落が出来たのは開坑後間もない頃と推測される。
元禄の頃はこの辺りに銅蔵(粗鋼を保管する倉庫)が建ち並んでいて、その囲りを柵が取りまいていた。その後、宝永年間(1704~1710)に至って床屋(吹所の前身)が建設されている。それまでの床屋は縁起の裏側(東側)にあったことは残倖からも明らかである。ここを上床屋といった。木方の床屋が上床屋を吸収し、また吹所と名を変えたのはいつの頃か明らかではないが、何れにしても最適の場所を選んで吹所をつくり、水利・燃料(木炭)等考慮して施設の整備統合がなされていった。そして、これに関係する者の柔落が発達していったとすべきであろう。
見花谷、両見谷部落の住人は吹所関係者であったことはいうまでもない。先に木方の項で木方吹所は木方区画へ人れるべきではないと記したが、職場と労働力が密着していた当時の生産桟構から推考すれば当然のことであろう。今一つ、葬祭に関しては両部落は合同で行なったというし、その証拠に五月の大祭には両部落でつくった太鼓台が練り歩いたという。その垂れ幕には吹方と書いてあったに違いない。
見花谷部落は明治32年の大水害に遭い全滅してしまう(下記参照)のであるが、最盛期には30戸程もあったという。
両見谷部落はその遺構から推して、中央部には役付が居住していたのであろ.うか、今に立派な石垣を残している。戸数は40~50戸、あるいはそれ以上あったものと思われる。
    明治の別子 99~100ページより
   
   
   明治32年に大水害があり旧別子撤退の様に書かれてある資料がありますが、上記の人口調査でもわかるように衰退はしておらず むしろ最盛期の人口は明治38年がピークで、大水害時より増えて1万2千人と言われていますいます。
明治34年 見花谷・両見谷の人口は348人となっています。この狭い谷間に348人は人口過密と言えます。本籍人口124人は今で言う住民票のある人で、寄留人口は他の地域から働きに来て 取あえず住んでいる人、単身赴任者などと思われます。
   
    この「銅山時化」で犠牲になられた人が沢山いらっしゃいます。籠手田彦三・神尾泰之・筒井岩太郎など当時の新聞で報道されていますが、その中に志尾貫一の名前が見られます。一家で犠牲になられましたが、一人だけ難をのがれ、その子孫の方が毎年命日に見花谷にお参りに見えられます。
‎2019‎年‎8‎月‎28‎日、‏‎11:51 同行撮影
     
   小野晴昭ホームページ 別子銅山 の研究報告
  に詳しい研究報告があります。
   
   dokidoki.ne.jp/home2/haruaki/bessi/M320828/index.htm