別子開坑二百五十年史話には目出度町とせず芽出度町とある
 
 
      目出度町鉱山入口
ここから足谷川の源流(風呂屋谷)を渡り、蘭塔場の裾を廻って土持谷を過ぎると広大な平坦地に出る。今そこは深い森の中だが、かっては別子銅山の中枢で勘場という大きな建物があった。大阪の泉屋本店から派遣された支配人や手代衆が多数詰めめていた。また、勘場には銅蔵や食料庫・資材庫・来客接待所などが附属していて、その周辺は厳重な柵が廻らされていた。
勧場の下の方はいわゆる目出度町という商店街で、今日のデパートにあたる伊予屋を始め料亭一心楼、饅頭の奥定商店等々軒を連ね、さらに郵便局や小学校まであり、銅山本部の下町的存在であった。
     
   
   明和六年(1769)の作と考えられる 
別子立川両御銅山図  別子銅山圖録より
   
   
   ①蘭塔場  ②大山積神社 ③住友病院 
殆どの家の屋根はカヤ葺きと皮葺ですね。
張盤の上に建てられた家屋が多いのに気が付きますね。
張盤とは崖など急斜面に丸太などで下から支えその上に家や道を築くものです。
旧別子は平地が極端に少なく石積をして家を建てたのですが、通行の道までは
確保できず 張盤による道が多かった。
   
     「明治中期の別子銅山復元図」
伊藤玉男氏作成の一部を拡大し引用させて頂きました。

戸数は凡そ三十戸程度で、
住人は主として商売関係者であったと言う。

赤い線は現在の登山道

風呂屋谷・目出度町部落
①私立住友病院、後自彊舎となる
②高原医師宅 右隣り菅一氏宅
③清水、山方方面唯一の水源地
④村上八郎氏宅 対岸の右は高原高原医師、左菅一氏
⑤荒井平次郎氏宅 源太郎氏生家
⑥公衆浴場 主人は国田某
⑦今井肉屋
⑧料理屋 養老亭
⑨小泉商店(伊予屋)後ここに分教場が出来る
     
     
    
明治23年の住友病院  住友史料館報29号より
住友病院である。玄関脇の看板に「住友病院」と読め、集合人物のなかに頭と腕に包帯を巻いた患者が見える
幕末から明治維新期にかけて「医館」という診療所がありましたが、明治7年(1874)8月に廃止されました。
その後、足谷小学校の近くに建てられたものが私立住友病院で、これが、今日の住友別子病院の起源です。     
歓喜の鉱山27ページ

明治16年、旧別子の目出度町に設置された医療施設が現在の住友別子病院の起源である。
ここには入院治療の病室も整っていた。
収釧所跡には大正の初め病院が移されたが、大正3年小足谷の火事で焼失した。
旧別子銅山案内33ページ

明治17年目出度町に創立
その後 木方重任局跡に移転
大正初め高橋溶鉱炉後に新築移転
大正4年廃止
別子銅山の思い出  より 

←現在の住友病院跡
 
   
     
       
     
   開局は、明治14年1月 愛媛県下で19番目の郵便局
旧別子は人口が減り、大正5年 弟地に移転した。
   
       
      1、局位置及取扱業務
明治一四年一月二日 郵便事務を別子山村五百五拾五番地内参百四拾弐番戸に於て、開始「別子山郵便局」と称す
明治一四年八月二十六日「別子山ノ内銅山局」と改称せらる
同十七年七月一六日 為替貯金事務を開始す
同一九年三月一五日 別子山村五百五十五番地内三百四十一
番戸(現位置)に移転す
同二十二年十二月十七日付にて 別子山の内別子銅山局と称ふるより、単に別子郵便局と称ふる方 煩を省き便利ならんとの旨を以て 改称方稟申、同二十三年三月二十五日付を以て 同年四月一日より「別子銅山局」と改称の旨達せらる
同二十九年七月一日 小包事務開始す
同三十八年十二月七日 告示を以て 同三十九年一月一日より「別子局」と改称せらる
別子郷土誌より(明治45年6月21日に完成)

←愛媛県宇摩郡別子局市内之圖
       
       
    病院跡付近にある水取場    料亭一心楼跡
       
       
    砂防堤     公衆浴場跡付近 広い階段が残っている
       
       
    風呂屋谷にかかる橋    清水が湧いている。
石囲いがあったのだろうが崩れている