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日浦通洞(標高(765m)
明治44年(1911)東延斜坑底からここ日浦谷へ向けて開削をは
じめ、明治44年に開通した多目的通洞である。全長は2,020m、
東平の第三通洞とも繋がり、銅山峰の南北を結ぶ鉱石や物資輸送
の動脈となった。更に、同時に併行して建設された端出場水力発
電所用水路も併設されていた。
大正13年(1924)には筏津坑との問に索道が架設されて、筏津・
余慶・積善坑の鉱石がここに運ばれ、鉱車に積み替えられて東平
へ運び出されていた。昭和13年(1938)には周りを金網で囲まれ
た籠電車が運転されるようになり、広く村民にも供用された。
  ※通洞:人や物資を運搬するトンネル

                    住友グループ
  ※  案内板には「明治14年(1811)東延斜坑底から」となっていますが正しくは「明治44年(1911)」です。 
   
     
   日浦通洞 1966年(昭和41年)3月 撮影    坑口付近 1966年(昭和41年)3月 撮影
   トンネル内の白い点は電車のヘッドライトです。
機関車は先頭で走ってきてトンネル出口付近で客車を切り離し、入り口まで出てこんどは最後尾から押し出してきました。出口付近のみ複線でした。
   学生3人の左側(家とは反対側)に旧別子に行く道があり旧別子への登山口でした。
トンネルの右には 短いがインクラインがありその奥に筏津からの索道の終点があった
       
       
     
   日浦通洞は、延長約2,120㍍ 第三通洞は延長約1,795㍍を開さくしたもので、坑道幅3.35㍍、高さ3.73㍍
日浦通洞の長さは文献によって違う
2020mは 旧別子銅山案内・別子銅山・新居浜史談・あかがねの故郷
2120mは 歓喜の鉱山・別子300年の歩み・ 山村文化・ 別子銅山のあゆみ  さて
       
       
     昭和13年(1938)にカゴ電車が運転されるようになり、社員のみでなく広く村民にも供用されていました。

東平からカゴ電車に乗ると日浦に着きます。
ほとんどがトンネルで 小マンプ 大マンプ第三通洞からなっていました。
東平から日浦までは4582mで 小マンプは32m 大マンプは244m 第三通洞は1,818mこの日浦通洞~斜坑までの距離は2,020m、第三通道と合計して3,838mものトンネルとなります。

マンプとは別子銅山ではトンネルのことで 坑道のことを「間符(まぶ)」と呼ばれていたのが変化してマンプとなったと言われています

別子銅山閉山ともに「カゴ電車」も廃止され 通洞も閉鎖され内部で閉塞工事が行われています。
       
   
    カゴ電車の大きさは 
   幅 227  高さ157  奥行86 (単位cm)
10両編成ぐらいで走っていったと思います。
1日3往復で 日浦に着くとすぐ折り返し運転が
されていました。
東平発7:30~8:00日浦着 
東平発11:30~12:00日浦着 
東平発16:00~16:30日浦着 
料金は無料でした。
   通洞内は灯りがなく 真っ暗の中を走り抜けます。
走っている時間は30分でしたので 時速は約8km ジョギングぐらいの速さですがトンネルは コンクリートで周りを固めた自動車道路のトンネルとは違い殆どが岩をくり抜いただけで地盤の弱いところは坑木で支えていました。
平均 幅3.3mですが 岩の飛び出た所などは ぶつかるかと思うぐらい車幅いっぱいで走っていました。
体感速度は60km もっとあったかもわかりません。
安全を考え「オリ」のような構造で、通称「カゴ電車」として親しまれた
       
       何故昭和13年に かご電車が出来たかといいますと、それまで日浦坑口の近くに日浦社宅(約50戸)があり、筏津坑の一部の社員とその家族、また七番川のあちこちに、住友林業や共同電力の社員と家族の人達が住んでおりました。
別子山村は雪の深い所で、その子弟が冬季豪雪の中を銅山川をくだり南光院の前を通って弟地まで出なければ別子山村の小・中学校へ通学できませんので、いろいろ陳情があった末、とに角、昭和13年の9月から、東平の小・中学校へ通学してよろしいと校区変更が決定された訳です。
そこで会社はその筋の許可を得て、保安上の万全を期するため かご電車を製作、日浦周辺児童の東平通学、別子山村々民とその家族、 住友関係者(業務都合上)と特に許可した者(東平坑事務所と筏津坑事務所で証明書発行)の乗車を許可しました。
随ってかご電車の運行は昭和13年9月から同48年4月23日まで でした、       郷土史談136_18ページより(芥川三平著)
       
       
   日浦坑口の作業員「別子銅山の思い出」より     取材中の別子中学校の生徒 別子山公民館蔵より
       
       
   七番山から切り出された木材 トロッコで構内に送られる。木口には#の焼き印がある。
       
       使われなくなったのが 昭和47年(1972年)
ですからもう50年の歳月が流れています
       
       
   東平の小マンプ以外にかご電車の保存しているところ  
           
   筏津の展示場    大山積神社境内   日浦通洞内
           
    少し前の日浦通洞    
       
  別子山役場時代にで見せてもらった写真 橋の欄干があり 通行禁止にはなっていません 
       
     坑口にあった事務所。現在も残っており、
机や黒板  玄関先には朽ちたスーパーカブがある
 
       
       
   鉄橋は橋げたはなくフレームのみになっています    坑口は閉鎖され 冬だから見えるが、夏は草木に覆われている。
       
     
   揚水場の前を通り進んでいくと、案内板があり 橋が見えます。金網があり通行する事は出来ません。    川に降りてみました。
下から覗くと 鉄橋はかなり腐食していて穴が開いているところもありました。
       
   日浦社宅    
  広瀬記念館が発行した「別子銅山が育んだ社宅街」と言う小冊子があります。この中には別子山の社宅は登場しません。が日浦にも社宅がありました。下記は取材記録。写真はありません

田尾館長さんに尋ねてみた。
日浦の社宅は知らないようだったが、資料を出して来てくれた。社宅の資料として あるようだ。

全部で 9戸 6軒長屋が1棟と3軒長屋が1棟
昭和12年4月完成 
炊事場と便所は 共同 広さは 3畳と4.5畳 
取り壊しの時期は 記入なし
 
ちゃんと教えてくれました。門前払いにされるのかと 思っていました。 
    
重機がありますが、この上が社宅が
あった所で、石垣などが残っています。
     
       
      日浦揚水場
端出場水力発電所の水は、日浦通洞内経由で送られていましたが 昭和45年に発電を停止しました。
明治54年以来、大野谷・暗谷・新山谷・日浦谷の水を集めて、端出場発電所に送っていたのが不要になったことになります。すぐ上流に別子ダムがあり、東平発電所に導水しています。別子ダムまでここから、3基のモーターを使ってポンプアップされています。 

別子ダム横に見える水管の水は下から上に流れています
       
 
2022/06/25