蘭塔場をおり歓喜坑を右に見て少し登ると、緩やかな道・牛車道に辿りつく。少し歩いた所から左側の谷底を覗くと、蘭塔場の全貌が見える。更に牛車道を辿ってゆくと銅山越に出る。銅山峰である。晴天の日には新居浜市街、瀬戸の島々が眼下に見え、中国地方の山々も見えるとか・・・。この峰に、石積みで囲まれた地藏尊が祀られている。延享二(一、七四四)年に無縁仏を供養するため安置されたものです。仲持衆や別子山と新居浜を行き来する人々が、道中の無事加護を祈り願ったと聞く。
益友57号 蘭塔法要 追想記 井上省二記 より
銅山越(標高1,294m)
開坑以来の悲願が叶って元禄15年(1702)別子銅山の粗銅は、ここを越えて新居浜の大江の浜まで2日で運びだせる様になった。それまでは村の東はずれの小箱峠を越えて宇摩郡天満の浦まで2継3日もかかっていた。以来、明治19年に第一通洞が開通するまでの184年間、粗銅と共に山内に住む数千人の食糧も中持人夫に背負われてこの峠を往来した。
しかし、海抜1,300mもある銅山峰は、しばしば厳しい表情を見せ、風雪のため行き倒れた者もあった。峰の地蔵さんは三界万霊、その無縁仏を祠ったちのてある。その地蔵さんの縁日は旧暦8月24日であった。明治の頃には道筋には幟がはためき、横の舟窪には土俵があって子供相撲に歓声が湧いたという。
別子山内図     鉱山史別巻_006ページより
山内の模様を克明に描いている。墨癡は別子銅山八曲一双屏風の著者である。天保十年(1839)の作
上記 左絵図は「別子山内図」の一部です。拡大したのが右絵図です。当時から峯地蔵が祀られていたのが分かる。「番所」もあり往来に目を光らせていたのだろう。
左の萱の原が東舟窪 三ノ森東の窪・舟窪・西舟窪・東舟窪
銅山越の窪地、東舟窪にはかつて相撲場があった。明治時代のことだが旧暦の8月24日には別子銅山に住む子供たちが集まって相撲をとり峰の地蔵さんの縁日を盛りあげたという。窪地の真中には土俵があり、囲りの斜面は恰好な観覧席となっていた。昭和2、30年代のそこはススキが原となり、現在ではまだ一部にススキの群生はあるものゝ大半はノ
リウツギ、ヤマヤナギ、ネジキ、アカマツ、ミズメ、ミズキなどの雑木林となっている。林床には太陽光が届かないほどに成長し、もはや陽樹の実生は認められない。長年硫煙の支配下にあって一木一草だに留めなかった銅山越に、極相へ向かう兆候がようやく見えはじめたのである。
あかがねの峰新版56ページ
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お地蔵さん
銅山峰の鞍部、いわゆる銅山越は、新居浜側の住民は古来から船窪と呼んでいたように、嶺北側から銅山越を見ると、まさに船を横から見た船底のような形をしています。
嶺南と嶺北を結ぶ道の接点、ちょうど峠となっているところに、蘭塔場のようにコの字型の石積があり、この中には無縁仏を供養するため、延享2年(1744)と明治37年(1904)造られた石仏が安置されています。(もう1体石仏がありますが、年代不明です。)
    歓喜の鉱山91ページ  
多くの書物の中に延享2年(1744)と書かれてありますが 正しくは(1745)です。
石囲いの中にお地蔵さんが祀られている 昭和28年8月23日 和田義邑氏撮影
峰田保氏撮影 撮影年月日不明  はげ山だった銅山越に緑が戻ってきた。
2023‎年‎8‎月‎4‎日 蘭塔法要 もう立派な森である。
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峰地蔵の前に「銅山越」の看板があるのはお気付きでしょうか? 別子銅山にピッタリの看板である。この看板は私の山友であるエントツ山さん(本名ではない)が設置したものだ。彼は「標識」と言う。この標識はほったらかしにしておくと、 くすんで輝きをなくする。家に持って帰って磨かなければならない。近くに「銅山峰」の標識もある。それだけではない私の確認している標識は西赤石山・物住頭・前赤石山・八巻山・東赤石山など その他串が峰など人のあまり行かない山にもあるようだ。世話の焼ける標識である。官庁とか企業でもなく個人の趣味の範囲とは・・・驚き頭が下がる。彼のホームページに
「銅板標識作成者より、お気に入りの山をバックに記念写真を撮って頂けたら幸いです‼️との事。」とあった。