パイプ橋  登山口からの所要時間  50分強
ダイヤモンド水から7分で着きます。ここが分岐になります。
 
 
       
   
  ここで、道が分かれます。どちらを選んでも銅山峰に着きます。地図と道標があります。まっすぐ行くと「目出度町経由50分」。橋を渡ると「寛政谷木方経由50分」。さぁ、どうする。「町経由の方が谷経由より楽だろう」と考える人がいますが、「橋を渡ってください」。まっすぐは急な登りがあったり、道がわかりづらかったりします。
       
       明治20年頃の木方吹所(製錬所)を南側から見上げた風景である。
中央左寄りに土橋があり、その右下で谷が分かれている。右が足谷川で左の方を奥窯谷という。足谷川に面して右の山側に建ち並ぶのは木方吹所である。この時点では高橋製錬所よりもこちらの方が産銅量は勝っていた。
右上から斜めに箱樋が掛り、その左で白煙が上がっているところは明治13年から生産が始った最初の湿式製錬所(沈澱銅)の施設であろう。左の巨大な両面石積の向こうは木炭倉庫で、その真上にも石積が天に突き出しでいる。当時の和式製錬では1トンの銅を作るのに4トンもの木炭を使っていた。木炭は食糧に次ぐ貴重な物で、従って銅蔵や木炭倉庫の建ち並ぶ鉱山の心臓部の入口は石垣や柵で厳重に囲まれていた。因みにこの辺りを裏門と呼んでいた
  右の写真はほぼ同じ位置から撮影してみました。明治20年ごろの写真は、山が剥げていますが、現在は木々の間から見え隠れする「ほど緑が復活しました。 撮影は11月29日、夏場は葉で隠れて全く見えません。
       
    第一通洞南口や東延斜坑に通じるこの鉄管橋は、そんなに古いものではない。別子鉱山では新しい鉱源を求めて下へ下へと掘りさがっていったが、戦後になって、江戸時代に掘った上部の方にまだ残鉱が相当あるんじゃないか、ということになり、昭和20年代から上部開発起業をはじめた。その作業用の水が多量に要るものだから、こちらの奥窯谷の水を三インチのパイプを使ってサイホンで南口まで揚水していたのだ。鉄管橋の鉄管は、そのときのパイプを転用しているものである。
山村文化32号33ページ

← 2006/09/23撮影
現在の橋はH鋼で作成されていますが左の写真は鉄管で作られていました。ですから「鉄管橋」と呼ばれていましたが、いつからか「パイプ橋」と呼ばれるようになった。 
       
      パイプ橋ができる以前はどこが道だったのだろうか? 現在の所は、橋を渡ると石垣ですので明らかにこの場所ではなかった事がわかります。伊藤玉男さんの「明治中期の地図」には赤線で示したように東延橋があり対岸に渡り、谷筋に道が付いています。いま砂防ダムが出来ています。
谷筋には石垣があり道が残っていたり、施設跡?や新たな工事跡などがありますが、調査中です。
地図にもあるように、築堤以外にも暗渠があったようで、明治32年の大水害で流されたと記録に残っています。

東延谷にかかる橋 橋台が残っているという事で、調査しましたがわかりませんでした。
赤い矢印の所が現在のパイプ橋がかかっている所です。
       
     とっても貴重な写真が手に入りました。
東延谷を撮影した1枚です。上の地図のある東延橋が写っています。欄干のない橋ですが、東延に行くメイン道路です。明治時代は鉄管橋はありませんから、ここから東延谷を遡る道路がありました。現在ここには砂防ダムが出来ています。
すぐ下流にはトラス橋が見えています。
昭和38年8月23日
 別子山村郵便局長
   和田義邑氏撮影
 
       
    パイプ橋を渡らずに 目出度町の方に進むと滝が現れます。これは人工の滝で東延谷の水をこちらに迂回させた落下させています。
詳しくは第一通洞のところで紹介します。
 

さらに上流に行き 谷に降りるとカラミが谷におおいかぶさっています。
製錬所が沢山あった場所です。集落的には木方に入ります。
       
 

2022/07/14