別子銅山 慰霊登山       . 2019/08/28     .
   
  1899年8月28日 別子銅山で大水害が発生し 513人の人が無くなった。
毎年、埼玉県から 子孫の人が来て慰霊登山をする。
今日でちょうど120年目にあたる。
九州北部では被害も出るような雨でした。
別子も雨が降りしきっていた。
志尾氏の一家は本人・妻・子供6人が犠牲になった。
6歳だった子供一人が、新居浜に居たため難を逃れた。
被災場所は見花谷。
ここは多くの犠牲者を出した所で 今は鬱蒼と樹木が茂っている。
当時ははげ山で土石流により被害が拡大したようだ。

ご冥福を祈る。
 
   
   
       コースタイム
旧別子登山口   9:05
円通寺跡     9:20-9:46
ダイヤモンド水  10:27
見花谷      11:06-11:51
旧別子登山口   13:45



       
           
  旧別子登山口    円通寺跡に向かう    
           
           
   円通寺跡 合掌    筒井岩太郎氏のお墓    
           
           
   筒井岩太郎氏は志尾貫一氏の1歳違いという事で 子供の時からの友達だった可能性が高い
 毎年 このお墓にお参りしています。  
   
           
           
   志尾貫一氏のお墓は瑞應寺に移して墓は無い
 見花谷の災害現場に線香をたむける。
  帰り お弁当を食べる。    
江見水蔭の別子銅山変災視察録の一部
 国立国会図書館デジタルコレクション
からダウンロードできます
       
   「四国災害アーカイブス」より    
       
   2018年11月11日 - 近県状況も記載。 別子銅山変災視察録 江見水蔭 星. 明治 33 年. 神戸新聞社の記者がレポートした被害状況である。    
       
   明治32年(1899)8月28日、台風により、別子銅山では日降水量が325ミリとなり、特に午後8時20分〜9時までの40分間に極めて強い集中豪雨があった。このため、各所で土石流が発生し、見花谷及び小足谷の従業員住宅など別子銅山の各施設が崩壊、流失した。土石流が多発した理由として、薪炭材利用のための樹木の切り倒しや精錬による煙害などにより周辺山地がはげ山になっていたことがあげられる。被害は死者513人、負傷者28人、家屋の全壊・流失122戸、半壊37戸に及んだ。(「別子銅山」等による)    
       
   明治32年(1899)8月28日、土佐湾に上陸した台風は石鎚山脈を越えて東予地区を襲い、午後6時頃には暴風雨となった。最高潮に達した8時半頃には、全山が山津波の状態となり、一緒に風呂屋谷、見花谷及び小足谷の従業員住宅をはじめ、製錬所、収銅所、倉庫などが一大音響とともに崩壊谷間に流失した。家屋倒壊122戸、家屋大破27戸、死者513人、負傷者26人を出して、暴風雨は午後10時におさまった。    
       
   明治32年(1899)8月28日、東予地方に暴風雨が襲来し、千余人の犠牲者を出した。この記録には、当時神戸新聞の記者であった江見忠功が現地から報告した「別子銅山変災視察録」第1報〜第6報が記されている。    
       
  その他参考     
       
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