山村文化1号8ページ _泉屋道と立川銅山道筋. より
金刀比羅宮に通ずる道が金比羅街道と呼ばれたように、庶民の生活や信仰と深く結びついた道には自からそれなりの表現がなされるものである。
別子山村から小箱の峠を越え浦山経由で天満の浦に至る道は、僅かではあっても別子の山で穫れた農産物を領主に納める年貢の道であった。
同時にこの道は塩の道であり魚貝の道でもあって、人の往来は稀であったかも知れないが別子山村や近隣の山村の住民にとっては生命の道であったことには間違いない。
それ故に誰もが親しみをこめて天満道と呼んでいたのである。
ところがその道も、別子銅山が開坑して荒銅や生活物資の輸送路として使いはじめると、いつの間にか泉屋道と呼ばれるようになり、元禄一五年に輸送路が足谷峰を越えて新居浜浦へ通ずるようになってからも、長く泉屋道の名は消えなかった。
定かではないが村民の半数は出稼ぎで生活を支えていたであろうこの時代、泉屋による別子銅山の開発は神にも増して有難たかったにちがいない。
それ故に泉屋道の名が天満道にとって代わるのには何の抵抗もなかったことだろう。

         あかがねの峰新版(伊藤玉男著) 141ページより
  
「別子鉱山鉄道略史」25ページ  別子銅山運搬より
  
  
足谷---------------仲持で25.2km ---------------浦山----- 牛馬で6.3km---天満浦
 
(  私の試算した各地区ごとの距離  )
足谷-- 3.8km -- 日浦 -- 3.0km -- 弟地 -- 5.5km -- 芋野 -- 4.9km  - 小箱越  -
 
小箱越 -- 0.8km -- 勘場平 -- 2.1km -- 中の川 -- 2.9km -- 浦山 -- 6.3km -- 天満浦
 
第一次泉屋道はいつ出来たのか?
元禄3年10月に採掘の許可申請。
翌4年4月、書類を改めて再出願 元禄4年5月9日に正式許可を得て、9月22日から採掘。 
元禄4年12月1日に、焼鉱炉に火が入った。
この年5122.900貫(19,211kg)精銅とある。  あわただしい限りではあるが、元禄3年10月に採掘の許可申請した時点で道を付ける工事はしていたのではないでしょうか。
弟地までの道はあったので 弟地から別子銅山までの7km弱の工事。また弟地から天満浦までの拡張工事も同時に進められた。1年ぐらいで焼鉱炉まで完成させなかればならなかったので第一次泉屋道は天満浦から別子銅山への荷物がほとんどで、元禄4年12月から銅の道になった
  

この図によりますと、赤い線が主要道路ですね。風呂屋谷を渡り、勘場の下部を通り、見花谷・両見谷を超え裏門へと続いています。今の登山道は風呂屋谷を渡らず、延喜の端の裾を通り東延に出ます。こちらの東延ルートは明治になって出来た道路だそうです。


〝仲持ち〟さん
別子銅山初期(元禄15年、新居浜へ通ずる新道が出来るまで)の仲持は天満の浦(宇摩郡土居町天満)から銅山まで9里(約35キロ)の山坂道を、男が12貫(45キロ)以上、女が8貫(30キロ)以上の荷物を担ぎ上げたのであるが、全行程を通したのではない。今の土居町中ノ川や、別子の芋野、弟地などには中宿(中継所)があって、それぞれの区間を決められた人足によって継ぎ持ちするのである。仲持とは継ぎ持ちの意である。仲持はまた帰る便に鋼を運搬したのは勿論である。度々述べたように銅は金銀に次ぐ国の財宝であったから、彼等を他の仲持と区別して御用仲持と呼んで一種の格付けをしていた。
明治の別子141ページより

← 住友別子鉱山史別巻2ページより
御用中持
たかが中持、されど中持。技術職ではない中持は、五体満足でありさえすれば男でも女子でも勤まる仕事だ。が、別子銅山ではその中持に随分と苦労させられてきた。その辺りのことは泉屋道の章である程度述べたが、別子銅山初期の稼行で中持の果した役割について今少し立ち入ってみることにする。
中持とは人力だけで物を運ぶ基本的な輸送手段である。機械力は一切使わないが、一般的に平地では天秤棒を山間部で背負子を使っていた。というより現在でもなお登山社会では強力という形で残っているし、外国の例だがヒマラヤ登山ではポータと称する運搬人の肩を借りなければ前進は不可能なくらいだ。たゴ、そういった荷物の運搬に従事する者の呼称はまちまちで全国的に通用するものはないように思う。が、ともかく愛媛や高知県ではこの呼び名が一般的だ。中持はまた仲持ともいう。どちらを使っても間違っているわけではない。以下省略
あかがねの峰新版174ページに詳しく載っている
東平歴史資料館で仲持ち体験
仲持ちさんは 男が12貫(45キロ)以上、女が8貫(30キロ)以上の荷物を運んだと言われているが、どのぐらい重かったのだろう?
最近は重たいものを持つ機会がなくなった。昔の話で恐縮せすが、運動会で「俵担ぎ」と言う競技があった。俵をかついでリレーする。1俵は60kgでした。なんと!なんと!。セメントの袋は1俵40kgから25kgになった。重い物を持つことが少なくなった。ひ弱な現代人に  体験
東平歴史資料館に仲持ちさんが運んだ荷物30kgが体験できる。女性用か?と軽く見ないで! 
45kgの 男性用は設置されていません。
 
初回はノックアウト
私が第一次泉屋道に足を踏み入れたのは2012‎年‎5‎月‎4‎日と思う
写真のdata・ブログ・ホームページを見ると、この日らしい。
上記山村文化5号38ページ_泉屋道の記事をみて出かけて行った。
小箱越まではたどり着いたが、少し足を伸ばした所で道が分からなくなり
引き返すことも難しく、峨蔵越に出て、登山道を下った。この道は知っていた。
初回はノックアウトされたわけだ。
  
誰も知らない
第一次泉屋道を調べようにも資料が殆どない。何時、田向重右衛門が通ったとか、天満道だったとか
歩くには関係のない物ばかり。
実際に歩いた記録が残っていた。年代順に
①益友36巻07号「天満道と泉屋道」 伊藤玉男著 平成元年(1989)4月29~30日
ルート 4月29日歓喜間符~葛籠尾 4月30日葛籠尾~小箱越出会い峠勘場平~中の川~天満の港  参加者10名(実名あり)
②山村文化06号 「一次泉屋道を出合峠まで歩く」平成9年1月30日発行 西俊明著 
踏破日不明 平成8年12月ごろと思われる。土居町役場~中の川~別子渡瀬~店の別れ~勘場平~出合峠  参加者伊藤玉男氏を含め15名写真あり
  
実名の方や、写真に写っている人にお会いして話を伺いました。皆さん一応に「行った事は覚えているがルートまでは知らない!。連れて行ってもらったから」と言う。
③私の山仲間のエントツ山さんとマーシーさん ガクちゃんと三人が2009年 平成21年4月6日に第一次泉屋道(仲持道)を探せと歩いている

ホームページで公開されている。(今はない)

第一次泉屋道の一部を歩いている
  
取材歴
2012/05/04 小箱越 小箱越を過ぎて道迷い
2012/05/20 小箱越 出会まで 小箱越までたどり着く
2012/06/02 浦山川 林道通行止め 付近探索
2012/06/03 別子 肉淵・芋野 古道探索
2012/06/10 小箱越 出会を超えて 勘場平まで行けず
2012/11/04 土居 別子渡瀬まで 土居から挑戦
2012/11/10 土居 浦山 中の川探索
2013/01/12 土居 入野 街中
2013/01/13 土居 天満浦 港周辺
2014/11/30 第一泉屋道 出合峠 土居から友人と向かうが断念
2015/05/03 第一泉屋道 出合峠まで 土居から 第一泉屋道が繋がった
2020/06/02 小箱越 住友林業OBと
2022/10/28 小箱越 住友林業社員・OBと
 

2024/02/08