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天満浦 |
浦山から天満までのルートは 研究者によって 多少の違いがあります このルートは坪井利一郎氏の研究によって明らかになった浦山-天満ルートを利用させていただきました。 「益友」に「レポート 第一次泉屋道」と題して詳しく寄稿している 新居浜図書館にもあるようなので ぜひ 読んでいただきたい。 浦山から天満浦までの約12kmは馬で運搬したと言われています。地図上で距離を測ってみると 浦山から天満浦までは5.5kmぐらいしかなく これも疑問な点です |
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浦山を出発しました。 | 高速の下をくぐります |
みかん畑の中を進む、 | 右の道へ |
大きな道に出ましたが | 右の細い道が泉屋道かな? |
あぜ道の先に国道11号線 | その先にJRが走る。 |
踏切を抜けると細い道がある。 | 入り組んでいるが、北をめざす。 |
集落が切れるところも | 石積みの家が所々にあります |
舗装のしていない田舎道 いいね | 古いお墓が在ります 「明和」「文化」の年号が確認できました |
この辺でおばあさんに話を聞きました | この道は荷車の道で細い道だったらしい |
天王橋も最近架かった橋のようで 近所の おばあさんから聞いた話。 娘の頃 この辺の関川には橋がなかった。ずーっと下流に廻るか飛び石の関川を渡るかだった。 | 坪井氏に聞いた話ですが、この辺は台風で川が氾濫して地形が変わっていたらしい。道理で道がわからない訳だ。氾濫を繰り返していた 関川 |
天王橋付近 このあたりで川を渡ったのでしょうか | 郷社八雲神社の鳥居の前を通る |
住友の出店の跡である 常夜燈はごみ置場に占領され小さくたたずむ。 |
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恵比寿神社 | 集会所西にある常夜燈 |
明治4年建立の常夜燈 | 四国西国秩父坂東神社仏閣礼拝の石碑 |
古い民家があった 人は住んでいない | |
文久3年建立の常夜燈 文化7年建立の繰抜き方常夜燈 |
この道を行くと 旧千々の川になる |
手前の漁港を天満浦と間違える人もいるようですが 実際はもう少し東であった。 | |
千々の木川は氾濫を繰り返していた。改修工事で真直ぐ流れるようになった。残った所は旧水路として残っている。この辺りが第一次泉屋道の終点であろうかと思われる。明治41年の地図を見てみると、河口はもう少し奥まで入っている。沖に停泊している大阪行きの舟まで、小舟で運搬したのではないだろうか。 ゼンリン住宅地図 伊予三島市 ’86 |
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旧水路として残る千々木川 | 広い川ではなかったようだ。 |
草が茂っていた。 | 今の川との境 閉め切られている |
新しい千々木川河口 | |
今まで歩いてきた第一次泉屋道を振り返る 国道11号線 関川からの眺めですが 小箱越も出合峠も望む事は出来ない |
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天満の浦には寺尾九兵衛という大ボスがいました。元禄3年秋、先程申しました田向調査団が海路川之江の港に上陸し、翌日は代官所へ挨拶に行ったあと、陸路を天満の浦までやって来て、寺尾九兵衛方に一泊しております。目的は今回の調査如何では代官後藤覚右衛門の思惑通りこの港が大坂と別子を結ぶ唯一の中継地になる訳で、その港や付近の状況、民情の視察が必要不可欠だが、その外に何かがあった、と私は考えております。寺尾九兵衛は宇摩郡内の天領の村々を束ねる大庄屋で、多分寛文10年(1670)、西条松平藩成立の時点ではまだ天満村の庄屋に過ぎなかったが、その後急速に頭角を現わしていって、元禄時代ともなると宇摩郡内で隠然たる勢力を誇っていたものと考えられます。 寺尾九兵衛が並の大庄屋ではなかった証に、宝永3年(1706)に讃岐の金毘羅さんに唐金製の立派な灯篭を寄進しております。一つは元禄10年に泉屋が別子銅山の繁栄を願って寄進したものと比べると少し小ぶりですが、それでも台座の直径は1mもあり、高さも2m60もある。製作請負人は大坂の舛屋甚兵衛で、実際に鋳型に入れて細工したのは松井太兵衛という男で、その銅は案外別子銅山のものだったのかも知れません。またもう一つは、金毘羅さんの本殿の裏庭に、泉屋と寺尾九兵衛の唐金灯篭が二つ並んで建っている。偶然にしてはあまりにも出来過ぎているとは思いませんか。しかしそれはともかく、そこに刻まれている寄進者の名前に寺尾九兵衛尉宗清とある。その内の尉というのは佐に次ぐ官位であって、戦前ならぱ高等官でございました。 庄屋は村役人で、ある者は名字帯刀を許されていましたが、官位までもらっていたとは考え難い。が、ともかく灯籠にはそう書いてあります。 当時、川之江の代官所に詰める役人は大半が地下の役人で、下代あるいは元締と称する者の他、何人かは代官の家来で江戸から下向して地下の役人共を取り仕切っていたと思われます。当時、代官後藤覚右衛門は京都におりましたので、備中川上郡と伊予宇摩郡にはそれぞれ代理人即ち下代を派遣して行政に当たっていた訳であります。従って、地下の役人は、いわゆる世襲の月給取りでございまして、しかも薄給でございますから実質は村内の取り仕切りは村役人が行い、その頂点に立つ大庄屋ともなりますと、広い屋敷を構えて大層豪勢な暮らしをし、権勢を誇っていたのであります。 殊に寺尾家の場合は天満の浜も支配しておりましたようで、他の庄屋とは異なった立場にあったものと思われます。 当時、宇摩郡の海岸線は小さな舟溜りは幾つかあったと思われますが、港といえるものは川之江と天満しかなかったのではないでしょうか。ですから、字摩郡内は勿論のこと、法皇山脈を越えた銅山川筋の村々、あるいは更に土佐との国境にあたる脊稜を越えて、今日土佐嶺北と呼ばれて集められた海産物は背後の村々に送られ、代りに山村からは茶、楮、小豆、大豆などの山の物は天満の港に集積され消費地まで回送されておりました。このように天満という処は、物資の流通上大変重要な位置にあり、今でも山村のあちこちで天満道という呼称が残っておりますが、それは当時の交通動脈の名残でございます。 このように見て参りますと、別子銅山の荒銅も、取りあえずは天満の港で船積して大坂へ回送し、生活物資や建設資材も天満の港を基地にしてという着想が生まれるのは、むしろ当然かと思う訳であります。更に飛躍して想像を逞しく致しますと、寺尾九兵衛という男は、別子銅山の基地を天満に置くことで近辺の村々の今日でいうところの活性化を日論んでいたと言えないこともないのであります。 (山村文化5号_5ページ) 銅の道 伊藤玉男 新居浜市生きがい創造学園・講演よりー |
制作 2012年12月12日