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      第一次泉屋道を最初から最後まで歩いた人は極少ない。
詳細を記入し残しておきたいと思う。
したがって、ページ数が多くなる(本じゃないよ!)が
我慢して読んでもらいたい!
. 2022‎年‎10‎月‎28‎日、‏‎11:55  小箱越
 
山村文化5号38ページ_泉屋道 小箱越
   ⑤他領津  ⑥七曲り ⑦小箱別れ
  
 さて ここからは資料がない 上記の山村文化 高橋幹さんの地図が頼りだ
  大日本帝国陸軍測量部発行(現国土地理)新居浜  明治41年08月25日
  
国土地理 Webページより  赤い線は私が歩いた第一泉屋道
私の歩いた赤い線は、明治41年の赤い線によく似ている。現在は林道が出来て、二ッ岳登山口まで車で行ける。それから北に黄色い点線の道があるが、これは第二次世界大戦中に陸軍が付けた馬道で今は全く通行できないが地図ではいかにも歩けるかのように記されている。
それでは第一泉屋道の登り口からご案内しましょう
明治41年の地図を見ると、ここから下流には道がない。肉淵・芋野に向かう道があるのみで、下流に行くには天皇橋から対岸に渡り、右岸を行く。この道も住友が炭の道として付けた道である。昔の別子山の道は、集落と集落を繋ぐ道で、人家の無い所には道がなかったようです。
県道で土居まで抜ける予定であった。 左の小道が第一泉屋道の登り口です。
  
県道131号(別子山土居線)は肉淵から小箱越を通り土居まで通じる道です。工事は中断したままで完成のめどはありません。
もともとこの道は馬道(別子の人はこう呼ぶが軍用道路)で戦争中瀬戸内海から高知まで馬を通す(物資輸送)目的で軍隊によって作られました。芋野には善通寺の軍隊が来て宿泊し村民も手伝っての工事となった。この馬道は第一次泉屋道を利用して作られたようですが すべてではありません。第一泉屋道は歩道(歩いて通る道)ですので赤坂のように急坂もありました。それを迂回するように馬道が付けられました。馬道は多少の坂やゆるい階段なら大丈夫なようですが県道131号は自動車道ですので馬道より緩やかな道になっています。第一次泉屋道から馬道 そして県道131号と姿を変えて現代に至っています。
最近舗装された。右は水田。肥沃な土地だった。 自治会館の裏に芋野に抜ける小径がある。
むかし土佐の国のある男が、京にのぼり、お薬師さまの木像を求め海を渡り、野越え山越え土佐に帰える途中、別子の芋野まできたとき近藤と呼ぶ店さきでお薬師さまをおろしてお茶をいただいて一休みしました。疲れもとれたので、さあ出発しようと、薬師さまを背負おうとしましたが動きません。男は仕方なく諦らめて薬師さまを置いて土佐に帰えっていきました。芋野の人々は相談して、お堂を作りお祀り申しあげたのが現在の薬師堂だと伝えられています。 
   別子山村史の914ページ
お堂は小高い丘になっています。すぐ下に近藤さんと言う家があります。先祖から受け継いでこの薬師堂を守っているとの事でした。
芋野 2012‎年‎6‎月‎3‎日 集落を東に抜け谷を越えると立派な道
  
上に道 県道と交差しながら  水源地になった 赤い線が泉屋道
  
第一次泉屋道の石垣を見つけた 石鎚神社と言う事だった
   
  谷の部分は道が崩壊して分からない。
 
①の場所 峠を越えると道が残っていました。 すぐ上に林道が通っています。
 
②の場所 ③の所まで道は無かった。 その後はほぼ水平な道が続き谷が近くなる
 
七曲
 大木谷を渡ると「七曲り」と呼ばれる急坂が待ち受けている。等高線を見てもわかる通り第一次泉屋道で一番の難所ではないだろうか。約200m登ることになる。何回目かに道があり事に気が付いた。わかりずらい道だ。腑に落ちないのが青丸で囲んだ黄色い道だ。100mストーンと落して、また100m登る道だ。45kgの荷物を背負って歩く道。これなないだろう。探索してみたが、見当たらなかった。 
 
大木谷を渡る。昔は橋があったのだろう。飛び越えて渡った。
 
七曲り これが道だった。 写真で見るより現地は急な山です。
峠を越えると穏やかな道となる ほとんで人通りが無いと思うが道はある。
1000年以上も踏み固められた古道です。ゆっくりと歩きたいが 気が焦る。
ここに この看板がないと 小箱越だと知る人はいないだろう。何のヘンテツもない所です。
  
コースタイム
谷から七曲りを通り尾根まで   23分  
尾根から 小箱越まで  40分
 

制作  2012年12月12日   一部修正あり