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勘場平(かんばなる) |
出合峠から中の川 |
赤い線は実際に歩いた所です。初回は黄色い線を信じて歩いて山中をさ迷った。無事下山できたが、いい加減な地図であることは、承知していたのだが、こんなにひどいとは。 「②店の別れ」は特定できなかった。 |
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山村文化5号38ページ 高橋幹氏の資料より | |
すぐに植林地があります。わかりづらい道です | |
道の跡に雨水が流れ掘れている。 | 石垣の向こうは勘場平だ。標高940m |
勘場平 | |
史話は勘場平の情景を次のように記している。 赤星山の裾を巻いて、踏み分け路の細い急な坂を、およそ一里近くも辿ると「勘場平」と呼ぱれる処にでる。二反あまりもあろうか、此処は極めて平かに均された山中には珍しい平坦地で、処々に壊れた石垣が点在していて、物の建てられた跡が偲ばれる。(中略) 勘場平は、路がおぱこの高原へ出ようとする僅か手前に位し、天満村から別子への道に中宿を設けるとすれば、最も格好の位置に当っていて、馬の中継、中持の交代、さては冬季積雪の深い折など殊に交通の安全、物資の貯蔵等になくてはならぬ場所であることがはっきりとわかる。此の辺一帯、元禄当時は勘場を中心に、恰も旧別子に於ける目出度町のようにいろいろの店屋が栄えていて、それらが「店の別れ」の平地に建ち並んでいたであろうと想われる。 |
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下記は山村文化5号 高橋幹氏の記述である。 記録によれぱ、元禄7年下半期に天満浦から大坂に積出した銅は約78万斤(468トン〕である。中持ち一人が40キログラムを運んだとすると、毎日65人が稼働したことになる。勘場平は中継所だから、この倍の130人の中持ちが毎日出入りしたことになり、中持ち以外の人達を加えると、勘場平の賑わいは相当なものであったと想像される。 |
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住居跡かな? | 広い敷地の端は石垣では無かった |
標高 730m 代わり映えのしない風景 | 標高660m地点 橋が落ちて少し危険 |
別子渡瀬の少し上。上の道は林業作業道のようです。国土地理院の地図はこちらが書かれている。途中で道が無くなり、さ迷ったさ迷った。 | 別子渡瀬。水も豊富にあり休憩場所に良い。 |
中の川の集落の跡 | すぐ下に県道が見える。ホットする。 |
中の川から浦山 |
明治41年の地図には赤線で示したように浦山川沿って造られている。右の地図に私の歩いた軌跡を加えた。中の川から①までは泉屋道を改修したようである。①から②はトレース出来ない。崖が急で危険だった事もあるが車道工事の為、土砂で埋まったとも考えられる。②でようやく車道から降りた。 | |
②の地点 この付近から下る 道は無い | 道を発見 川から離れていない |
石垣も確認しました | ③の地点 保安林の看板がある |
大屋敷地区に入ったようで道が広い | 民家があったのだろう石垣が残る |
④の地点 大屋敷 | この石垣を曲がると谷に出る道がある |
谷を渡ると石垣が続いていた | かなり広い場所で 集落があったのだろうか |
ミツバチの巣と花柴の栽培畑 | ⑤の地点 橋が見え 集落がある |
浦山 |
浦山は小さな集落です。赤線の泉屋道は私の想像で描きました。集落の間を通ってみると石積が残っている。当時の物と思いたい。300余年も昔の話になるので断言できない。 揚げ荷、下げ荷の倉庫があったに違いない。 |
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やっと浦山まできました。 仲持ちさんはここまでで ここから天満浦までは牛馬で運んだとあります。 |
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制作 2012年12月12日