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元禄3年9月に住友家支配人田向重右衛門が別子銅山を見分している。 その3年前から 宇摩郡三嶋村・祇太夫が別子銅山(幕領)を盗掘していたから道が無いわけではなかったろうが 250年史話には「蓊鬱たる密林は前面に蔽いかかり、杉・松・檜・樟など干年の巨木が、縦横に根を張って、足を踏み入れるところもない」とある。 元禄以前から別子の七舗のうち「金切」と言うのは足谷川寛政坑付近にあったとあるから道はあったと思われる。頻繁に通行していたわけではないだろうから、山道ぐらいだったと思われる。 初期は日浦から勘場までは他の道も考えられる。日浦から下流は 川沿いを下る以外に道は考えられない。元禄年間の第一次泉屋道は赤い線で間違いないと思う。 |
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勘場から 旧別子登山口まで | |
上記の地図は現在の登山道を記入しています。この道を検証してみると、昔も殆ど変わらない所を通っていたと思われる。しいて言えばダイヤモンド水の対岸、高橋を通ったかもわからない。 出発点は勘場とした。鉱石を掘ったのは歓喜坑。荒銅にしたのは延喜の端。管理は勘場(目出度町)だったので勘場とした。開坑当時は歓喜坑付近だったかも分からない。広瀬記念館の床にある地図も勘場が出発点になっている。 青い線は、伊藤玉男氏が田向重右衛門が元禄3年に入山したのは「日浦谷―市左越―歓喜坑かも知れない」とあったので記してみた。実際今も歩けるルートでもあるが、少し遠回りになる。別子銅山が開発されるまで、杣(木こり)の人たちが通っていた道があったかも分からない。(林道を歩くと遠い) いずれにせよ足谷川沿いの道が付けられたのは、すぐの事であろう。 |
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出発点の勘場 | |||
勘場 100年新居浜・西条・東予30ページより |
勘場の様子 住友別子鉱山史別巻18ページより |
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勘場を集発するとすぐ見花谷がある。 | パイプ橋は昭和になってから架かった。 |
ダイヤモンド水 ここは木炭倉庫だった。 | 明治22年に巨大な倉庫が建ち劇場として使う |
小足谷 明治初年に開発された新しい集落 | この登山口は昭和40(1965)年頃から |
登山口から芋野中宿まで | |
使われなくなった第一次泉屋道 日浦 | 大野谷 別子鉱山写真帳より 明治31年 |
南光院 一次泉屋道 今の道と場所が違う | 現在の大野谷 拡幅工事中 |
撮影=和田義邑氏 | |
南光院 荷車もすれ違えないような道だった。 | 現在の南光院 |
撮影=和田義邑氏 | |
弟地 昭和40年代 赤線が第一次泉屋道 明治初年弟地炭宿で広瀬宰平も働いていた。 |
保土野 円通寺の跡地に小学校が建てられた。第一次泉屋道がくっきり見える |
撮影=曽我孝広 | 撮影=北田貞太郎氏 |
芋野は銅山川の左岸に面している。銅山川の右岸と左岸では日当たりが全く違う。写真でも分かるように芋野は陽がよく当たる平地である。急峻な別子で平地と言えば、瓜生野・葛籠尾があるが、両者とも右岸で日当たりが少ない。県道は左岸に通っている。 交通の便でも、別子山村は峨蔵越・小箱越を通じて他領と繋がていた。要するに別子山村の玄関でもある。ここに泉屋が目を付けて中宿としたのは当然と言える。 |
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撮影=峰田保氏 |
2024/02/08