星越駅から多喜ノ宮信号所までの960mは本線と共用です。
   この間のことは 山根駅に記しています。
  
国鉄連絡線
申請 昭和4年7月1日
許可 昭和7年9月2日
着工 昭和16年11月1日
開通 昭和17年11月12日
延長 2.701m
廃止 昭和42年1月31日
新居浜駅連絡線は昭和4年7月に申請をし昭和5年に営業許可昭和7年に工事許可が出ていました。しかし 着工が昭和16年と申請から12年もかかっています。先を見越しての申請だったのですが、昭和12年より各工場の増産を強いられ通勤者の確保と大量輸送に迫られ国鉄への乗り入れとなった。
左が新居浜駅連絡線 右は本線 端出場に続きます。新居浜駅連絡線は全長2701mとなっています。星越駅から多喜ノ宮信号所までは960mあるので多喜ノ宮信号所から新居浜駅までは1741mになります。
  
電化
「下部鉄道は電化され電車が走った」と言われますが星越−端出場間が昭和25年5月に電化され、星越−惣開間が昭和28年11月に電化されましたが新居浜駅線は電化されていません。
昭和31年にディーゼル車が導入されるまでの昭和11年9月から20年間は蒸気機関車が牽引していました。昭和32年から廃線になる昭和42年まではディーゼル車かその役目を受け継いでいます
新居浜駅連絡線は本線とだんだんと距離をおきながら緩やかにカーブします。植え込みの木々が選定されたところで殺風景な景色になっています。 程なく県道新居浜港線と立体交差します。
線路跡は急に下りまた登るようになっていますが蒸気機関車はこんなに急な坂は通行出来ませんので遊歩道になるときに通行量を考えて立体交差にしたものと思われます
立体交差をすぎると線路は真っ直ぐ続いています。
歩道と自転車道の区別をつけています。
歩いていると気がつくのですが自転車で快適に乗っていると東川にかかる橋に気がつかないかもわかりません
昭和11年完成の東川橋です。この橋の名前はなさそうです。調べてみたがわからなかった。わかればお知らせします。75年の年月が経っています。今は市民の為に役立っています。
新居浜南中学3年生の学習グループの生徒が立てた看板です。
いいですね。若い時に郷土の歴史を体験しておくと見る観点が違ってくるように思います。
立体交差した所から黒道ぐらいまで 約800m。ほぼ直線で走っています。路面は少し 凸凹が目立ちます
新居浜駅から滝の宮続く道との交差点です。
この道は 今は広い道ですが昔は車 1台通りかねるような細い道でした。地図を見ると踏切があったようです
黒道と交差します。
ここを過ぎると線路は大きく弧を描いて新居浜駅えと向かいます。
井上外科と河原学園(国際テクニカルビジネスカレッジ)はこんなに近くだったんですね。いつも 車だったから ぐる〜っと回っていました。1分ぐらいで行けそうです。
河原学園の横に尻無川が流れています。この橋 ちょっと新しいような気がします。新居浜駅線が開通した昭和17からある橋70年近く経っているとは思えません。調べてみます
  
「尻無川鉄僑手前の登り勾配で よくボイラーの圧力が下って動かなくなり 乗客はクモの子を散らすようにとび降りて 機関車に石を投げつけながら国鉄駅へ走って行くといったことが しばしばあり」と別子鉱山鉄道略史17ページに書かれている。石炭事情の悪い時代の事ではあるが 写真でみるかぎりそんなに急な坂とは思えない。
尻無川の橋を越えるとすぐ坂井跨道橋(こどうきょう)があります。跨道橋とは、道路の上を越えるために設置される橋のことだそうです 新居浜市が新居浜駅周辺都市計画の一環として整備したもので、94.2(金額の単位は百万円)かかっています。9420万円の事でしょうか う〜ん???
レールと枕木デザインしたとても綺麗な橋です。下は交通量の多い道路ですから 落下物防止のスケルトンの壁もオシャレです。鉄道が走っていた頃はここには鉄道橋があったのですが、いつから無いのでしょうか?1970年の住宅地図には もうありません
坂井跨道橋を過ぎると目の前に新居浜駅が見えます。新居浜駅周辺都市計画の最終段階で工事中だらけですが公園・トイレなど整備されスーパーが建設中です。
  
昭和34年の住宅地図です。
別子鉄道が新居浜駅まで延びています。坂井跨道橋のかかっている道路は建設中で旧道と交差しています。高架だったか?踏切だったかはまだ調査していません。
「開通と同時に 国鉄と尾道経由の連帯運輸を行なうこととし1枚の切符で 端出場本線・港線・汽船・山陽線と乗車(船)できることになり,大いに便利になった。」と別子鉱山鉄道略史15ページに書かれているなお 国鉄との連絡切符は昭和11年に尾道経由で始められており新居浜駅経由は開通時昭和17年から始まった。両方とも昭和27年10月1日に廃止になっています。
 
線路は住友化学倉庫で止まっています。ラットホームが描かれています。昭和30年に別子鉄道は専用鉄道に戻っていますので物資の輸送だけで乗客の昇降は無かったと思われます。  
 
後方にテレコムプラザのビルが見えますがこのあたりに別子鉄道の新居浜駅がありました。 新居浜駅方面から見た坂井跨道橋。
こんな急な坂は終戦当時のSLが登れるはずはありません。現代の事情を酌んで坂井跨道橋を架けているので高さは考慮しないでください。
      昭和25.5.1 星越−端出場 電化
昭和28.11.1 星越−惣開  電化
と本線は電化になったが新居浜駅線は電化には ならなかった。
ちなみにJR新居浜駅が電化になったのは平成5年のことである
昭和42年1月新居浜駅線は廃止になった。
別子鉱山鉄道「新居浜駅」の写真
 昭和63年9月撮影
 新居浜駅開業90周年記念イベント
  にいはま駅フェスで発見
現在はテレコムプラザ・フジが建っている
 

作成   2011年5月15日