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星越駅を東に向かう線路は2本あります。 1本は工作踏切を越えると北に向かう新居浜港線。 もう1本は端出場方面に向かう本線です。 |
星越駅〜多喜ノ宮信号所 |
今は「滝の宮」と表記するが「多喜ノ宮信号所」となっている 昔は「多喜ノ宮」だったのでしょう。 金子山古墳の番地は金子字多喜ノ宮丙15となっている ネット検索してみると平成17年10月18日の傾斜地崩壊危険区域 の指定に地番で「多喜ノ宮」となっている。 |
新居浜港線の工作課踏切から東は金網の塀ですので線路跡がよくわかります。 | 今までと比べて線路跡が広いのですね。ここは複線区間だったのです。昭和19年5月16日から昭和30年12月23日の10年余りは多喜ノ宮信号所から星越まで複線運行していました。 |
ここから 遊歩道が始まります。星越駅から670mの地点です。住友鉄道跡地自転車歩行者専用道路と言うそうです。長い名前なので私は 遊歩道と書きます | 整備された遊歩道は自転車と歩道に分けられ多くの市民に利用されている。通勤通学や散歩コース・ジョギングなど思い思いのスタイルでとけ込んでいるようです。 |
桜の季節には またおもむきが変わる。 ここは史跡 五輪塔群よばれ昭和40年(1965)6月3日 市指定です |
西の土居自治会館裏です。星越駅からちょうど1km地点です。パンジーがたくさん植えられています。「住鉄ふれあい倶楽部」(市民、企業、行政 が会員)の活動。整備された自歩道の残地部分を利用して花作りを行っています。自転車道2.4qのうち、約1.6qに置いて活動中。春は菜の花、夏はキバナコスモスがメインに咲き誇ります |
新居浜市指定史跡 五輪塔というのは、大日如来を象徴的に表現したものである。 最初は、成仏を祈願したものであったが、追々と死者の供養を 願って菩塔としても造られるようになった。 当地の五輪塔群は、材質も凝灰岩、砂岩、花崗岩等があり、 また梵字のあるものとないものがあり歴史的な時代の変化が 偲ばれる。 金子氏累代の墓石群と推定されているが、石材の 運搬経路及び梵字の存在(真言宗との関係が考えられる)は 近世にさかのぼる歴史的事情を物語っているのではなかろうか。 これらは、昭和20年代に大平熊伊曽・上田勘平 両氏によって 再掘されたものである。 新居浜市教育委員会 |
多喜ノ宮信号所 | |
Google Earthで空から見てみます。 本線と新居浜駅線は交わっていません |
それらしき物は何もありません。本線を歩いていると新居浜駅線の分かれ道も気がつきません。 |
1970年(昭和45)の住宅地図のは線路の様子が描かれています。ポイントの切り替えで行き先の操作をしていたようですね。昭和30年までは複線だったので信号所があったのでしょう | 多喜ノ宮信号所を出ると 線路は大きくアールを描く。東に向かっていたのが南に向きを変えるのです。北谷地踏切がありました。 |
滋眼寺の参道を横切って線路が通っています 「滝の宮駅は.駅舎撤去後も,昭和5〜6年頃まで.滋眼寺のねはん会には臨 時駅として使用していたことが記録されているから滋眼寺の参詣者が多かった 地域事情を配慮して設置したもの,と見てよいであろう。」 別子鉱山鉄道略史007ページ |
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慈光園 滝ノ宮駅の跡に建てられました。老朽化が進み金栄小学校南に 新築工事中です |
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1970年の住宅地図に別子鉱山鉄道略史059ページの滝ノ宮停車場平面図を重ね合わせて見ました。滝ノ宮停車場は現在の慈光園のあたりになります。滝ノ宮駅は「幻の駅」と言われています。実際に駅はあり場所の図面も残っているのですがいつ出来て いつ廃止になったのか 記録が残されていません。 |
滝ノ宮駅を過ぎると程なく 滝の宮公園入口の踏切になります。 |
ここが下部鉄道の「切り通し」です。上部鉄道の「切り通し」ほどスケールが大きくなく迫力も少ないのですが形としては整っています。遊歩道は半分ぐらいの幅になっていますが、鉄道は単線だったので十分な幅だったのでしょう。 |
切通し(きりどおし)とは、山や丘などを掘削し、人馬の交通を行えるようにした道である。トンネル掘削技術が発達していなかった明治時代以前には、切り立った地形の難所に道路を切り開く手段として広く用いられた。現代でも、工事費がトンネル掘削費用と比較し、安くあがる場合には用いられる。 | |
滝の宮公園は昭和27年度より整備を実施し昭和57年度に完成しましたが、昭和53年4月の山林火災により公園内にも類焼し修景施設が被災したため、以後4カ年計画で緑の復元事業を行いました。また、農業用溜池である大池を囲む道路は絶好の散歩コース(1周約0.85q)となっています。新居浜市の桜の名所でもあります。 | |
切り通しをすぎると線路は少しカーブしています。 このカーブを過ぎるをほぼ直線で 山根駅まで続いています。カーブの曲がりきったところで東川にさしかかります。 | 東川に歩道橋がかかっています。「滝の宮歩道橋」です。鉄道が走っていた頃は「滝ノ宮鉄橋」でなかっのではないかと思うのですが 資料が見つかりません。 |
2004年9月29日 台風21号により被害にあう 初代「滝の宮歩道橋」は台風により 壊滅的な被害にあい掛け替えられました。 |
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新しい「滝の宮歩道橋」 「滝の宮歩道橋」の100mぐらい上流に「真光寺橋」が100m下流に「滝の宮橋」橋があるのですが 真ん中の「滝の宮歩道橋」だけが被害にあいました。原因は橋脚にあったと思います。 「真光寺橋」は中央に橋脚がなく流れてきた大木をスルーしたようです。「滝の宮歩道橋」は3本ありここで受け止めてしまったようです。もう少し上流にJR鉄橋があるのですがここも橋脚が3本ですのでたくさんの大木が引っかかっていましたここは川幅が広く被害を免れました。新しい「滝の宮歩道橋」は川中に橋脚はありません。 |
小味地川踏切 滝の宮歩道橋を通過するとすぐ西の端線を横切ります。新居浜市のホームページの中萩小学校の通学地区に大永山(出口、小味地)とあります。ここから流れる水は小味地川と呼ばれています。東川と名が変わり、やがて金子川と呼ばれ 新居浜港に流れています。今は東川で統一されていますが別子鉄道では 小味地川となっています |
小味地川踏切を過ぎると直線の線路が続きます。 正面右に見える鉄塔の下あたりに田村踏切があります |
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田村踏切 鉄道建設にあたっで一番の難問題は、用地の買収であった。全長10km余のうち平野部は農耕地が多く、先祖伝来の土地を手放すことは大変な努力と決断を要することから、話し合いは難航した。当時、土橋の建設事務所に中萩村松木の田村久五郎がいた。彼は地方の人望家であったので、建設事務所の補佐役として、地主と根気よく折衝にあたり、鉄道敷設と地域開発の必要性を説いて、円満に話し合いをつけた功労者である。買収には多額の費用を要した。鉱山鉄道の国鉄との交叉点から滝の宮寄り100mの地点に「田村踏切」がある。大正時代に鉄道乗務員をしていた人の話によると、田村氏が列車に乗るときは、ここへ来て手を上げると上り、下りどの列車でも臨時停車したところから、その名がつけられたという。 (西條史談 第44号住友の豆汽車より) |
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別子鉱山鉄道下部線(下部鉄道)跡 海抜1300mの山向こうにある別子銅山の生命線は、運搬路であった。住友初代総理人広瀬宰平は、明治24年(1891)、近代化による産銅高急増に対応するため、別子鉱山鉄道の建設に着手、明治26年(1893)3月、惣開一端出場間10km余の下部鉄道、同年8月、石ケ山丈−角石原間。5,5km余の上部鉄道が完成、ドイツ国クラウス社製の蒸気機関車が走った(上部鉄道は明治44年(1911)廃止)。 下部鉄道には、当初、新居浜(惣開)・土橋・山根・板之元・端出場の5駅を設置したが、板之元駅は、明治28年、山根製錬所とともに廃止、その後、黒石(明治38年)・滝ノ宮・原地・星越(大正14年−1925−)の各駅が増設された。 昭和4年(1929)11月、鉱山専用鉄道から一般乗客も利用可能な地方鉄道となり、新居浜港線(昭和11年−1936−)・新居浜駅連絡線(昭和17年−1942−)を増設したが、戦後バスの普及により鉱山専用鉄道に戻り、昭和48年(1973)の別子銅山閉山、昭和51年(1976)の台風による山崩れにより・翌年2月、84年の歴史に幕を閉じた。 |
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春の別子鉄道菜の花が咲きます 秋はコスモスが風にゆらぎます JR予讃線の高架がすぐそこに見えます。 |
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昭和41年頃 (明治大正昭和新居浜92ページより) |
「別子鉄道が走り始めたのが明治26年の12月。 国鉄予讃線が新居浜を走り出したのが、大正10年6月21日。別子鉄道の方が28年も早かった。 だから国鉄は上を通らなければならなかった。」 こんな仮説をたてたのですが もっともらしいが違うようです。JRの滝の宮線踏切から尻無川の間は土地が低いようです。尻無川は川底が結構高くて高木橋の西の所などは屋根の高さぐらいに川底があります。JR東川鉄橋とJR尻無川鉄橋を直線で結ぶと別子鉄道とは必然的に立体交差になるようです。交差地点の標高は25m |
現在の住宅地図では上記のようになっているが・・・・ 駅があったところではない。 すれ違いようの複線だったかもわかりませんが 私の資料では見あたりませんでした。 |
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線路は田園の中を走っていました。 今でこそ両脇に民家が建ち並んでいますが 小味地川踏切から11号線までの間は 昭和34年の住宅地図でも沿線に 民家はありませんでした。 |
別子鉄道跡のど真ん中に立木がある。木の周囲にはベンチがあり休憩で来るようになっている。単線だったにしては 広いスペースである。 四国の鉄道廃線ハイキング149ページには「軌道は駅等、所々複線になっていますが ここも複線になっていたのです」とあります。 |
線路が少し登りはじめた。 木立が見えるところが11号線との交差だ。 |
現在の11号線 |
11号線高架 正面に民家が見えます。 鉄道は真っ直ぐ走っていた。 |
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土橋駅 |
柵の外にコンクリートで固めた石垣があります。土橋駅のプラットホーム跡です | 歴史上 土橋駅は2つある。 旧国道を夾んで北と南です。 |
やがて別子鉄道は旧国道と交差します。土橋踏切です。線路跡右手に見えるのが中村本町集会所です。中村本町集会所あたりに旧土橋駅があって 北の広場になっているところがプラットホームの跡です。土橋駅周辺は住宅が建てられ線路跡ぐらいしか残っていないのですがここ旧土橋駅周辺は広場で残っているのですね。 | 別子鉄道は開通当時(明治26年)途中駅は土橋駅と板ノ元駅だけだった。土橋駅が出来たのは明治26年です。そして昭和34年 土橋駅は廃止担っています。その間66年 土橋駅は旧国道をはさんで南から北に移転しています。いつごろ また どうした理由で移転したのか 謎です。 |
架線柱の土台 すみれ保育園駐車場を過ぎて150mほど行くと南北に走る狭い道と交差しますが、この北側にも架線柱の土台が残っています。 (四国の鉄道廃線ハイキング150ページ) |
四角に鉄骨のあとが見られます。50mほど行ったところにも もう1基ありましたがこちらは転倒していました |
途中 坑水路の補修工事をしていました。古くなった目地をやり変えているようです。耳をすませると「チョロチョロ」と水の流れる音が聞こえます。 | 尻無川にかかる角野橋歩道橋。左が角野橋です。ここでは角野橋の歩道橋という位置づけでした。平成19年12月完成となっていました |
尻無川を過ぎると別子鉄道の両脇に民家が迫ってきます。いままでは 土手の上とか 田畑が多かったのですが1977年に別子鉄道が廃止になりその後跡地は払い下げになったのか 民家がびっしり建っています。生活の営みが見えるようになります | 正面に民家があり車庫になっています。 少し 迂回します |
舗装も完了していましたのでもうすぐ 通行止めはもうすぐ解除になると思います。 |
出来上がった遊歩道を軽快に進む? (2011/2/26時点では 立入禁止でした) |
遊歩道はここまでで これから先は工事中でした 元の鉄道線路跡を遊歩道にする工事です。 |
厄介なのは坑水路の処置でしょうか?。 整地だけではすまないようです。 工事看板には「坑水路工事中」 |
遊歩道工事の最先端は山根駅まで達していました。 | 山根駅は 2つあった。最初に出来たのが今のローソンの付近新しい駅は旧駅から約100ぐらい土橋駅よりです。6792mとなっていいるのは 新居浜港駅からの距離です |
新しい山根駅のホーム跡です。ホームの高さは何センチあったのでしょうか。今は30cmほどの高さしか見えていません。ホームに残る屋根を支える柱の跡です。レールを柱にして プラットホームの屋根を支えていたと思います。切り取られて その跡が 点々と残っています。今 遊歩道の工事が進んでいます。そうなると このプラットホーム跡も破壊さて 整地され アスファルト舗装されるのでしょう。写真に残すなら 今しかないと思いますよ。 | |
昭和5年に開設した住友下部鉄道 山根駅 (別子銅山風土記_062ページより) 山根駅は山根収銅所の設置に伴い明治38年に設置されています。 写真は「昭和5年に開設した」とありますので新しい方の駅です |
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「別子銅山風土記」は近藤廣仲氏が平成2年12月に発行した本で 近藤広仲収蔵写真集と副題が付くような写真集です。 新居浜市立図書館でも貸し出し出来ます。 写真は季節は冬でしょうね。小さい木立は葉を落としています。人物は3人写っていて幼稚園か小学校低学年の男の子が座っていてその隣に婦人が2人 話でもしているのでしょう。きている物を見ても冬の装いです。 |
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昭和4年の営業開始時の惣開駅までの運賃は14銭となっています。 昭和4年の お米1表(60kg)の生産者価格が11円 2000年が15104円 計算すると2000年換算で192円ぐらいでしょうか 2011年 瀬戸内バスで 瑞応寺前から住友病院前までの運賃は470円です。 |
作成 2011年3月28日