今になっては何処が旧山根停車場だったのか、分かる場所は全く無い。上部の明治38年の地図と左記の昭和45年(1970年)の地図を重ねると 赤いマークの辺りにあったようだ。
 
山根大通りを横切ると別子鉄道はローソンの西を通ります。この場所は別子生協の跡地です。生協で販売する物資も鉄道で運んできてのではないでしょうか。柵などで通行できないようになっています。
 
今まで歩いてきた中で ここが一番狭いところでしょう。幅1m少しになっています。いくら単線でも 厳しすぎるのではないでしょうか?。
正面の石垣は突き当たりではなく 道路のため寸断されています
 
別子鉱山鉄道略史65ページにある山根停車場平面図です
明治38年頃とあります。
角野小学校
  明治20年 角野尋常小学校開設
鉄道
  明治26年  別子鉱山鉄道開通
山根収銅所
  明治38年完成
山根駅(停車場)
  明治38年設置
山根収銅所の設置に伴ない、収銅所の沈でん銅の積込駅として山根駅が設置された
  
地図の具合から見ると この辺りが旧山根駅と思われる だんだん狭くなり もう坑水路だけが残っている感じです。
山根収銅所です。立入禁止の鎖がはっています。ここは今も稼働していますので立ち入る事は止めました。 1970年の住宅地図
山根収銅所は立入禁止になっていますので 角野小学校の山際の道を迂回してください。
「からみ」混じりの石垣を発見しました。
銅鉱石から銅を製造する行程において銅分を取り除いたあと 鉄分を多量に含んだ「からみ」が残されます。旧別子の時代は山に 四阪島の時代は海に捨てられていました。これを 型に流し込み、自然冷却によって作られたものです。新居浜市内では「からみ」を使った建造物を見かけます。
角野小学校のグランドの脇を抜けます。山根グラウンドと同じ階段状の観覧席が見られます。このすぐ上を別子鉄道が走っています。
突き当たりが車道です。少し上流に内宮神社の鳥居が見えます。内宮神社は、人皇42代文武天皇の慶雲3年(706)8月 伊勢国五十鈴川の川上から日本民族の大祖 天照大神を迎えまつった。伊勢の内宮からお迎えしたので、内宮(ないくう)を訓読みして「うちのみや」と申すようになった。
新居浜まつりには この石段の参道を3トンに余る太鼓台石段かき上げで新居浜まつりの幕をあける。赤いラインが別子鉄道が横切っていた所です。

右が山根収銅所です。立入禁止のロープが張っています。金網の向こうには今も稼働中の施設がみえます
収銅所の様子は 内宮神社の参道の階段がらよく見えますので 見学するのもよいでしょう。明治時代からの方法で濾過されています。 参道を上流に(左手)に目をやりますと小さな鳥居があり その向こうに立入禁止の看板が見えます。別子鉄道は 山間ルートになり 端出場駅まで続きます
山岳部
別子鉱山鉄道略史36ページの山根駅から端出場駅までの地図です。 別子鉱山鉄道略史32ページの内宮神社を越えた辺りからの詳しい図面があります
内宮神社を抜けると日差しの柔らかな線路道になる 立川大師や白鳥別館などがある山の根付。切り通しになっている
  
板ノ元駅 
山根製錬所の輸送基亀として設けたもの。当時の山根製錬所は,新規有望事業として拡彊の過程にあった。図面で見るとこの辺りになる。高速道路の下か?
えんとつ山が良く見える。いつも見慣れている煙突の側面から見るようになります。
物言獄トンネル 緩やかなカーブになっている延長約25メートル、高さ約3.8メートル、幅約4.9メートル。 機関車は最初は蒸気機関車であった。その時の煙が付けたのだろう黒いススの煉瓦が残っている。天井のほうが黒い。昭和31年ディーゼル機関車導入 31年末蒸気機関車運転中止
トンネル中央部には 電車時代の碍子が残っている。
物言獄トンネルより少し上流に県道に下る道が下りている。自動車も通行出来る大きな道でメンテナンス用の道路だろう。 今は鉱水路だけが真っ直ぐ伸びている。
車屋トンネル 延長約55.2メートル、高さ約3.8メートル、幅約6.1メートルです。一部がコンクリ補強されています。 昭和51年9月台風17号による山崩れのため立川地区の鉄道が大被害を受け復旧不可能となる。11月鉄道撤収作業開始別子鉄道も84年の歴史を閉した。
黒石駅
やがて 黒石停車場が見えてきた 昭和52年2月別子鉄道廃止 3月撤収完了
絵葉書 右は鉱石搬入庫 貨車に鉱石を積み込む Docomoの電波塔が立っています。
 昭和34年1月黒石駅廃止
  
プラットホームの跡 機関車の車庫も兼ねていたので線路は
別子鉱山鉄道略史67ページ 
鉱石搬入庫 索道場 倉庫 機関庫 事務所などあった。
 
別子銅山黒石全景 絵葉書より  
明治38年 東平〜黒石索道完成と同時に、下部鉄道に複線の機関庫を備えた黒石駅が設置された
坑水路の桁跡
檜尾川(ひのきおがわ)橋 明治32年の大水害の時なかされ復旧しましたが。昭和6年現在のコンクリートの橋になりました。
この鉄の柵を越えれればマイントピア別子なのですが山側と谷側にも 全く隙間は無く 通行できません。マイントピア別子側から軌道に立ち入る事を制限している為と思われますが ちょっと出してもらいたい気もします。しかたなく いままで歩いて来た鉄道跡を引き返す事になります。
内宮神社まで40分ほどかかりました。ちなみに往路は撮影などに時間をかけましたので2時間ほどかかりました。
  
端出場
  
別子銅山が育んだ社宅街より 端出場付近地形図 昭和34年4月
 
明治31年 端出場停車場の風景
 
別子鉱山鉄道略史_130
別子鉱山鉄道略史_13

作成     2014年12月16日