本線は惣開駅から端出場駅までの延長10.461mです。
星越駅から1710m先の惣開駅まで行ってみます。
 
新居浜港線は住友鉱山の通じた線路に対し本線は住友化学・住友重機に通じていました。
どうして本線は住友鉱山じゃないの?と思うでしょうが昔は住友化学も重機も住友鉱山の会社でした。
1925年に「住友肥料製造所」が住友化学として1934年に「工作方」が住友重機として独立会社になりました。
星越駅から惣開駅まで1710mです。
星越の選鉱場はいま取り壊しの最中です。外壁が高くなっていて撮影が出来にくくなっています
2004年4月8日、12:56 撮影
  
2010年12月18日、10:18撮影
橋の下を通過した線路は正面奥に見える星越トンネルに向かうのです。でもこのトンネルは 下部鉄道が出来た明治26年にはありませんでした。トンネルが出来たのは明治37年です。
トンネルが出来るまでの11年間は 左の道路に線路がありました。 すごい坂ですね勾配は1/66(66m走ると1m高くなるということ)時々登り切れず立ち往生していたそうです
  
 星越トンネル
 
別子鉱山鉄道略史 43ページより
星越トンネルの図面があります。図面の見方がよくわからないのですが長さが110mですね。
  
この星越トンネルを設計したのは住友の技師であった小川東吾と言う人。あまりなじみのない人ですが彼の設計した端出場鉄橋(打除鉄橋)・端出場隧道は平成21年8月7日に登録有形文化財となった。
端出場隧道は現在も「マイントピア別子」の観光鉄道が走るトンネルとして使用されている。
トンネルは近寄ることは出来ません。鉄格子などで閉鎖されていますので トンネル上の道路から トンネルの出口の方に向かいます。
  
一応 立入禁止のようにロープなども張っていますが近所の人は野菜などを栽培していたりしているようです。まぁ大目に見てもらっているのでしょう。私も失礼してトンネルまで近づいて見ました。 110mと短いので向こうの入口が見えます。太いパイプが延びてきているのが気になりますが何か? わかりませんでした。
  
トンネル内の天井はススで黒くなっています。
SLが廃止になったのが 昭和31年もう 55年も前にもなります。
当時の面影を残している貴重な証拠です。
  
 原地

100年新居浜・西条・東予39ページより
線路がはっきり写っています
現在 三好鉄工所・日泉化学などの工場が並ぶ場所は空き地・畑などだったようです番号は下記の現在の写真です
 
昭和6年の地図(別子鉱山鉄道略史82ページ)です

「原地臨時駅」「原地駅跡」の表記があります

原地駅は明治30年代設置 その後廃止となっていますが詳しい資料がありません 
臨時駅は 大正〜昭和10頃まで 海水浴時期使用とあります。
何で海水浴と思うでしょうが 下記で説明します
写真@
県道沿いの線路あと 近所の人が花や野菜を植えています。
排水路を真っ直ぐ行くと星越トンネルになります。
  
写真A
線路はゆっくりをカーブを描き工場にと続きます
写真C
ここにも踏切があったと思われますが詳しい資料がありませんでした
  
写真C
ここにも踏切があったと思われますが詳しい資料がありませんでした
写真D
線路跡はここまでです。これから工場の中に入っています。2〜3年前までは線路跡は塀の外にあって散策が出来ていたのですが 住友重機の塀が道路沿いに設置され 線路跡は工場の内部になりました。原地駅は この向こうになります。
  
惣開駅
  
明治26年開通当時は端出場駅までの10.461mの始発駅として惣開駅は開設された。
開設当初は新居浜駅となっていたが大正10年6月 国鉄が開通。
昭和3年8月1日住友専用鉄道から一般客も乗車する営業制に切り替える申請するに当たり国鉄新居浜駅との混乱を避けるために惣開駅とした。
住友史料館報30号046ページより
明治40年頃の惣開駅。線路が3本見える。右にプラットホームがあり蒸気機関車が停車しています。明治40年頃は蒸気機関車は10台所有しており上部鉄道に5台 下部鉄道に5台運行していた。上部鉄道は明治44年に廃線になっている。
  
場所的には駐車場のあたりだと思うのですが?後ろの建物 よく似ていると思いませんか。昭和28年からだと58年も前になります。同じ建物ではないかもわかりませんね。
 
「明治大正昭和新居浜」99ページ
昭和34年頃  住友重機の屋上から撮影
右が磯浦方面で惣開駅もこちらにあったでしょう。線路が2本あります。踏切になっていますね。先日 住友化学のOBの方と話ているとこの踏切は 朝夕の通勤時間は 貨車は走らさないようにしていたと言うことです。客車は惣開駅までで ここは走っていないとの事でした。
星越−端出場間が 電化になったのは 昭和25年5月1日
星越−惣開間が 電化になったのは 昭和28年11月1日
昭和31年にディーゼル機関車5両購入し昭和31年12月31日 蒸気機関車廃止しています
上記の写真の頃にはもう蒸気機関車は走っていません。電車かディーゼル車です。
惣開駅は昭和42年3月 廃止になっています。別子鉄道が廃止になったのは昭和52年2月1日ですから10年も早く廃止になったのですね。鉱石の積み出しは 新居浜港線に工場前の人員輸送はバスに変わった為でしょうか?
  
高線
 
亜硫酸ガスによる煙害の問題により木が大量に枯死するなどした
そこで、やむなく1905年(明治38年)1月に、当時の別子銅山の支配人をしていた伊庭貞剛の決断で新居浜市北方沖合20kmの無人島である四阪島に移すこととなった。
四阪島に鉱石を積み出す惣開内港岸壁まで線路を延ばす事になった。66分の1の勾配があったため通称高線と呼ぶ(星越トンネルが出来る前の 星越山の勾配も66分の1です)
大正初期の線路図には高線以外に線路はなく惣開駅から延びた初めての線路だったようです。高線は昭和11年新居浜港線が出来 鉱石が新居浜港から四阪島に積み出されるようになると 廃線になった。住友の工場内の線路だったため 市民は知らない路線である
明治37年の高線の詳細図です 別子鉱山鉄道略史より
惣開周辺
 
別子鉱山鉄道略史の82ページに興味深い地図があるので紹介します。
地図は大きいので2枚にしています。84ページの詳細図附表も参照しました。
昭和6年の地図です。昭和6年は昭和通りが出来た年です。新居浜町の時代です。
 
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1 別子鉱業所   大正6年建設 昭和6年西原移転
2 運輸課   大正9年1月調度課より独立設置昭和9年銀行横移転
3 惣開駅 明治26年設置 S42魔止
5 惣開〜端出場線 明治26年建設 昭和42.3惣開〜星越間廃止
6 貨車修理場   大正末期移転設置 昭和9年星越移転
7 機関庫   明治33年移転設置 昭和ll年星越移転
8 陸揚線   明治30年代設置
9 鉱石船積線   明治37年設置 四阪島製錬所行 昭和11年廃止
10 接待館 昭和18〜19年 中新田移転
11 鉱業所長宅   昭和14〜15年 山根鎗友寮として移設
12 住友銀行 明治30年設置開業 昭和33年昭和通移転
    現在は住友化学歴史資料館 登録有形文化財
13 惣開郵便局 明治36年設置開業 昭和40年廃止
    現在は広田建設の倉庫
14 住友病院 明治32年設置開業 昭和ll年王子移転
    現在は住化不動産株式会社
15 泉寿亭 昭和11年 中新田移転 昭和12年 増築し,住友各社の共同管理
    マイントピア別子に移築保存
16 電錬工場   大正8年竣工5月操業開始
17 調度課 昭和初期接待館前移転 昭和22年別子調度事業所となる
18 別子倉庫 明治30年代設置
19 熔鉱炉跡 明治21年建設 明治38廃止 新居浜製作所の工場となる
20 大煙突跡 明治33年収じん装置の改善の一環として建設
21 発電所 明治38年建設 明治39.1発電開始 昭和25年廃止
22 新居浜製作所  昭和3年設立
23 船工場跡 大正末期 設置 大正15年 喜七郎移転
24 測候所跡 明治31年設置 昭和3年磯浦海岸移転
25 住友肥料製造所 大正2年設立
26 窒素工場 昭和5年建設 昭和6.1操業開始
27 西船溜 明治38年築港
39 昭和通り  昭和6年開通
制作   2011年3月26日