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鉄道には 始発駅と終着駅がある。下部鉄道の始発駅はどこか?。 別子鉄道は鉱石を運ぶ為に作られて鉄道です。 端出場から鉱石を積んで 惣開で降ろされていました。 始発駅は「端出場」とばかり思っていたのですが なんと起点は惣開駅で終点は「端出場」となっています。 |
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昭和9年に 港線が新設になり新居浜港駅が起点になった。左記地図は 昭和初期から昭和30年頃の住友鉱山の鉄道図です (別子鉱山鉄道略史 94ページより) 始発駅の新居浜港駅が記されています。 ここが出発点なのですが今では 住友金属鉱山の敷地内で 一般人は入ることが出来ません googleマップで上空から覗いてみましょう。空色の屋根が 住友金属鉱山別子事業所の事務所でこの辺に 新居浜港駅があったのですね。 |
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左記の地図は現在の 西原3丁目付近の地図です。 赤い線は下部鉄道が通って いたところ 長方形は駅舎です。 日和佐初太郎氏撮影の写真集「山 浜 島」の75ページの住友の工場群1の中に新居浜港駅が写っていました。 手前の煙突の付近の建物が新居浜港駅です。 左に船が2隻写っています。新居浜港です。 新居浜港駅の北側に線路が延びています。 構内の貨車輸送が活発だったのですね。 日和佐産の写真は使用許可が出ないので新居浜図書館に本があります。確認してください |
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なぜ「新居浜港駅」なのでしょう。 事務所の西に艀があり港になっています。 四阪島や関西方面に向かう船の桟橋でした。 「バンパックフェリー」と言って1970年3月、大阪・東神戸~川之江~新居浜に航路を開設し 運航してましたが、1998年4月、廃止となってしまいました。 今でも新居浜港なのです ダイヤモンドフェリーの発着するのは 新居浜東港です。 |
新居浜港駅 年代は記されていなかったのでわかりません。駅の外の人が2人いて 自転車とリヤカーが1台づつあります。ストーブの煙突が2本 見えます。 待合い室には帽子をかぶった人が待っているようです。季節は冬 時間は夕方ではないでしょうか |
「駅に停車中の機関車と客車。駅員2名が発車前の準備中である。 昭和25年頃の写真。」と記されてあります。機関車は別子銅山記念館に保存されているものとは違うようです。これは ED104と言う機関車です。写真の機関車は六輪連結六輪駆動ディーゼル機関車といって昭和31年に6両購入しています。 昭和44年から昭和52年にかけて順次スクラップになったようです |
歩いてみましょう |
始発駅は住友金属鉱山の敷地内ですので見学することは出来ません。正門付近から眺めるだけです。住友金属鉱山別子事業所正門付近 鉄筋の建物が事務所です。このあたりが始発駅 新居浜港駅があった。 | |
住友金属鉱山の正門手前10mぐらいの点を 南に向くと 短い橋が見える。 この橋が 鉄道橋です。 すぐ塀になり 線路跡は遮断されています ここが 今回の探索の出発点になります |
線路跡からの撮影です。正面の塀の向こうは住友金属鉱山の敷地になります。ポールが立っていてロープが張られています。駐車場の跡の白線が残っていますが これは大丸時代に利用していたのではないでしょうか。新居浜大丸は昭和通りに面して建築されて駐車場は裏にあった。スペースが少なく線路跡も駐車場になっていたのでしょう |
新居浜図書館に新居浜市の1970年の住宅地図があります。下部鉄道新居浜港線は 廃止になったのが1975年ですからまだ住宅地図に載っていました。大丸付近の地図です。 建造物が大きく変わっていますが 地形は今も同じですね。新居浜クッキングスクールは今 郵便局ですね別子労働組合の場所は駐車場になっています |
この写真は鉄橋を背に撮っていすので 赤い線が線路の跡と思われます。 | |
「四国の鉄道廃線ハイキング」本 138ページに「鉄道鉄橋は撤去されているものの、排水路のパイプ橋は残置しています。」とある。ここにどんな鉄橋がかかっていたのか思い出せないが橋脚は当時のままでしょう。 橋脚の上にパイプを通すための鉄橋を造ったような跡が見られます |
駐車場の突き当たりは東川で鉄橋がかかっています。排水用のパイプが2本乗せられています |
昭和橋駅 |
橋を渡り、駐車場を抜けると ガソリンスタンドの裏にある別子労働会館に突き当たります。この建物は廃線のあと建てられた物ではないでしょうか。その建物を迂回すると 広い駐車場に出ます。ここが昭和橋駅の跡です。 昭和橋駅付近を拡大しています。 昭和30年代の写真という事です。現在の昭和橋駅付近 タイヤランドの裏が昭和橋駅があった。 ローソンのあたりは線路が敷かれていた。 |
江口踏切 |
今も複雑な交差点ですが 当時はこれに線路が加わったとっても 複雑な交差点だった。 白い建物が交番です。赤丸 |
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江口・河内 付近 |
ローソンの駐車場南の端の交番の前に立ったら今の景色がこんな写真になりました。下部鉄道 新居浜港線は昭和橋踏切から河内踏切までは前田社宅の東の端をまっすぐ南北に走っています。 今のイオンモールの東の通りです。線路の場所は 東の歩道の植え込みぐらいでしょうか?。 |
歩道の車道側に植え込みがありますが 線路はこのあたりに通っていたと思われます。歩道の左が水路になっていて すぐ線路がありました。水路脇に車が止まっていてマンションが見えます。その後ろのピンクに見える建物が西中です。マンションと西中の間に道があり線路を横切っていて 踏切になっていました。 赤い線は学校西踏切の場所です。学校西踏切は信号機も遮断機もなかったように記憶しています。人と自転車が通れるぐらいの隙間が開いただけの踏切だったように思う。記憶違いだったらごめんなさい |
ミサワホーム四国の建物があるところぐらいから線路は西にカーブしています。 | そして 市道(西の土居線)と交差しています。線路は西の土居線と交差していますが道路は行き止まりになっていて通行出来なかったと記憶しています。 |
工場内に入った線路は もう一度一般人の通行する道路に出ます。そこが 工作課踏切です。この間280mほどです |
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イオンの広告塔がありますがこの下あたりを線路が通っていたようです。開発が進んで当時の面影が全く無くなっています。カーブを描いていた道路も 真っ直ぐ付け替えられ突き当たりは信号があります。 線路は道路を渡ると住友鉱山の工作課がありました。現在は新居浜電子となっている 正門付近から構内に入り星越駅に向かっていました。 工場内へ |
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写真の赤い線が踏み切りがあったところです。 信号機のある交差点ではありません。 後方にイオンモールの建物が見えます。 |
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踏切だった所に立って東の方角です。ここに 端出場から 新居浜駅から 新居浜港からの物資や人が星越駅を目指してやってきたのです。 星越駅まで200m足らずです。 ですが 再び工場の敷地の中を走ります |
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星越駅から新居浜港駅まで線路が延びたのは昭和11年距離は 2040m で 途中の駅は 昭和橋駅のみ 敷地は殆ど住友の用地だったので 2kmぐらいはすんなり敷設できたと思いますが 実際はかなり難航したようです。 |
大正初期の地図です 地図から20年ぐらい経っての新居浜港線の工事でしたが「沼の多い湿地帯のため 埋め立ても埋めても なかなか地盤が固定しなかった」と別子鉱山鉄道略史15ページにあります。「1頭の牛が底なし沼に埋没したと語り伝えられている。」ともあります。 現在も 新居浜図書館南に北泉井戸が イオン北に善右ェ門井戸があり今でも水をたたえています。 埋め立ての土砂は 金子山と星越山を切り取って牛車で運んだようです |
区間 新居浜港-星越 申請 昭和10年4月19日 許可 昭和10年12月27 開通 昭和11年9月16日 延長 2000m 廃止 昭和50年9月3日 |
作成 2011年3月31日