10人乗りの車輌

下部鉄道は 昭和4年11月5日 専用鉄道から地方鉄道になった。
鉱石専用から人も乗車できる路線になったのである。
背景には バスもさほど発達していなく  工場通勤者が多くなり
地域住民からの声も多かったようです。


「住友別子鉱山株式会社鉄道」として携わった人員は 
運輸長(駅長ほか)111名 車輌長(機関手ほか)45名 
保線長25名 合計187名であった。

運賃は 惣開駅から 星越まで4銭 土橋11銭 山根14銭 石黒19銭
端出場 20銭でした。
    
「昭和橋駅と新居浜港駅との間の運賃は 当時1銭だったので 老人達が
孫をつれて この間をよく乗った と言うことである」
別子鉱山鉄道略史15ページより


地方鉄道になるにあたって購入した客車(64人乗り)

客車は 上記図面の64人乗りが6輌 21人乗りが4輌 10人乗りが10輌
機関車は蒸気機関車で10輌でした。

ダイヤは上り 惣開発4:10 端出場着4:55 を始発に
       惣開発19:30 端出場着20:15まで
        所要時間45分

    下り 端出場発5:07 惣開着5:47
       端出場発21:05 惣開着21:45まで
        所要時間40分
各21本運行されていました。


 
営業開始直後の営業成績がある
(別子鉱山鉄道略史14ページ)
昭和4年11月5日〜12月31日までの57日間の
1日平均の利用者は6334人である。
翌年の1日平均は3000人弱であるのに倍以上です。
物珍しさも手伝って多くの市民が乗車したのだろうか?。
それにしても6334人とはすごい数です。
上記の客車20輌で客数が
64X6+21X4+10X10=568

もう一つ興味深い数字がある
運輸収入・旅客運賃が昭和5年が40801.92円です。
人を乗せるために安全の為の設備や駅舎の土地購入
車輌購入など費用予算が415000円 当時としては
莫大な費用だったようです。
年間4万円の収入に41万円出費になります。
下部鉄道
蒸気機関車は、端出場に向かって車両の先頭(通常の走行)が、前を向いて運行する。
下り(端出場から星越)は、車両の後方が、先頭になる。
これは車両が、転換する機能を持っていなかった為である。
旅客として進展した国鉄とは技術基準が、異なっていたのだろう。
電気列車になると、前後似た形になり、蒸気機関車とは反対に、
端出場に向かって後方運転。星越に向かって、前進運転になる。松岡