端出場発電所の横を流れる川は足谷川です。国領川と思っている人も多いと思うが、生子橋から上流は足谷川と名前を変える。足谷川上流から水を取って(取水)くれば良いのだが、水量が少ない。 山の向こうの銅山川の水を狙ったのだが、銅山川は吉野川水系となり、最終的に徳島県に流れている。今も昔も水利権は大きな問題である。 |
吉野川分水水利権 端出場発電所建設に伴う、吉野川からの分水権を得たことは最大の快挙である。この下流水利権者徳島県との交渉関係書類は残されていない。その時間経過も同様。 資料によると、引水申請直前に別子山村、角野村に説明し、明治41年1月、愛媛県知事に提出されている。その後、愛媛県より徳島県との合議が行われ、43年2月愛媛県より引水許可を受ける。この1年間が交渉期間であろうが、徳島県の意見や些細は不明。 吉野川分水事業は現在7事業があるが、明治期の山間部の水利権問題は現在とは違い、筏流しや灌漑用水と推察される。流水量の減少は猶予されたのかも知れない。 この水利権は、現在も引き継がれ、別子は勿論、新居浜市も大きな特権を得ている。 電力土木木者の語る端出場水力発電所より |
別子山村の3分の1強の水利権を得た。青い四角は下記の絵図にする。 |
別子の水は、川下から上流に向けて 逆流する。 |
取水口は七番川・日浦谷・大野谷の3ヶ所。暗谷・新山谷は、その後追加申請する。 大野谷からの水路は、銅山川左岸側を木樋開渠や小隧道で日浦谷に導水する。 |
端出場発電所は閉鎖になりましたが、取水は東平発電所取水口として現在も稼働中です。 施設は新しくなっています。写真は現在の物です。 取水の設備・方法が変更になっている部分があります。ご了承ください。 |
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取水の仕方もその時の情勢に大きく変化します。最初は「流込み式」と言ってダムや池を持たなくて流れ込んでくる水だけを利用する方法だった。七番ダムが出来て、貯える事が出来るようになった。別子ダムが完成し、多くの水量が確保できた。東平発電所完成。端出場発電所が閉鎖。別子銅山閉山。第三通洞閉塞。しかし、暗谷から日浦までの水の流れは変わらなかった。 |
くらがりだに | |
流域面積 0.62㎡ 取水量 0.056㎥/s | |
この日は取水をしていませんでした。理由は別子ダムに必要なだけの水があったのでしょう。谷の水はそのまま流され、うまくいけば徳島県に流れますが、途中に富郷ダム・柳瀬ダム・新宮ダム・池田ダムがあり海まではたどりつかないかなぁ。 | |
暗谷は水量は多い。 | 全ての水は取水せていなかった。 |
塩ビパイプではこばれ | タンクに貯められ、砂も取り除かれる。 |
土管で日浦に送られる。初期は木の樋でした。 | 図面 |
おおのだに | |
流域面積 2.01㎡ 取水量 0.195㎥/s | |
大野谷は水が豊富で枯れることはない。集落から離れているため飲料水にもしていない。 | |
取水された水はほぼ水平に造られた水路 (今は鉄管が埋まっている) |
銅山川に向かって水管で下る |
県道に少しだけ見える送水管コンクリートで覆われている | 県道から対岸の水管が見える。夏は見づらい |
昭和28年ごろの写真。初代の水管。 撮影 和田義邑氏 |
水管は昭和44年に取り換えられたが鉄橋は初代のまま。 |
大野谷サイフォン設備は、明治44年施工で形鋼、鉄管を使用している。当設備は国産品と推定されるが不明。設備は近代的な設備で昭和45 年、管体は更新した。鋼橋はオリジナル。 電力土木木者の語る端出場水力発電所より |
大野谷サイフォンとは 大野谷で取水した水を対岸にある水路まで送るのであるが、モーターなどの動力を使わず左記の図のような原理で送水した。 |
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手前の土管は暗谷からの水。右下からの管は大野谷から、合流して日浦に送られる。 | 大野谷取水口の図面 |
にいやまだに | |
流域面積 0.463㎡ 取水量 0.028㎥/s | |
現在 別子ダムに水量が多い時は取水していない時があるようです。 | |
思ったほど水量は多くない | 暗谷・大野谷の水は水管によって谷渡をする |
日浦水路 | 暗谷~日浦坑口間 |
最初は木樋水路であったが昭和2年9月、現在も残る鉄筋コンクリート水路に改造されている 定期的な断水点検を行い、コンクリート水路の漏水補修した。日浦近くで地すぺり地帯を横断し継続した地盤沈下が生じる他は特段の問題も無く、現在も使用している。 端出場発電所を語る_学習大学講演 |
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ひうらだに | |
流域面積 5.711㎡ 取水量 0.334㎥/s | |
日浦谷取水口は2ヵ所ありこちらは第一取水口です。日浦通洞から少し登った所にあります。今は使用していません。第二取水口は上流にあり東平発電所用の水を取水しています。 | |
別子ダムが出来た頃からこの施設は使われなくなったと思われます。 | 端出場発電所時代の取水口 |
ひうら | |
日浦に集まってきた水は日浦通洞の水路によって端出場発電所まで送られます。 | |
坑口付近の水の流れ |
写真① 1973年ごろ | 写真② 1972年9月発行の写真集にある写真 |
写真③ 別子山公民館所蔵 | 写真④ 2019年2月 |
(資料がないので想像部分もある。ご了承下さい)。写真①の左下に送水管が2本見える。 写真②もある。右の黒い丸太は電柱の切った物だろう。線路が外されている。写真③は稼働中と思われる。①~③には橋と事務所前の石垣に送水管がない。日浦谷の取水は直接日浦通洞に落とし込まれていた。大野谷からの水は①の送水管で写真④の橋の真ん中を通っていたのではないだろうか? 写真④⑤に送水管が写っているが、これは日浦谷の水を揚水場に送ったもので日浦谷第二取水口が出来てから不要の物になった。 |
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写真⑤ 2022年7月 |
現在の日浦通洞。ほぼ当時のままですが、鉄格子があり中に入る事は出来ません。 | 稼働中の入口です。左の人の足元が水路になっています。大野谷方面から送られてきた水はこの水路で端出場発電所に送られた。 |
日浦通洞に流れ込んだ水は 日浦通洞+第三通洞(途中付替水路あり) 構内水路4280.00m 9号隧道 667.9m を出るまで真暗な水路を流れる。 |
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通洞内水路 | 私の見聞した別子銅山より |
端出場発電所の水を銅山川に求める事は第三通洞と日浦通洞を抜きに考えられない。 |
第三通洞は明治27年に着工 明治36年三角(みすま=鉱石の沢山ある所)に到達している。三角から日浦に向けて掘削を開始したのが明治41年。端出場発電所はまだ予備設計の段階で、愛媛県が水利権許可を出したのが明治43年。なんと許可が出る2年も前から日浦通洞を掘り始めている。日浦通洞が完成しなくては、端出場発電所は発電できない。 |
大正時代に大きくルートが変更している。建設当時は第三通洞(1795m)-8番坑道(619m)-日浦通洞(2120m)とほぼ一直線であったが、大正時代に付替水路(水専用の単独隧道)1597.5mが完成している。 第三通洞を抜けるとすぐ9号トンネル(667.93m)となり 構内水路と合わせて5000m近くがトンネルである。 |